統一教会と献金 統一教会の歴史

2009年以降の統一教会と献金(10年代)~信徒の犠牲は何のため?

ご利益か?自己犠牲か?

「これで本当に救済されると思いますか?」 先日、記者の方から、旧・統一教会の「被害者救済法案」について尋ねられました。

恐らく、示された範囲では、実際に“救済されない”方々もおられるでしょうし、「抜け道」も多々あるに違いありません。が、「借り入れによる献金」が規制されるだけでも、今いる信徒やその家族を守ることにはつながるのではないか、と思いました。(献金に変わり得る)土地や資産は全ての人が持っている訳ではありませんが、「借り入れ」は誰にでもできてしまうからです。

本来、信徒が借金してまで献金しようものなら、まず教会側で止めるべきでしょう。しかし、実際、借金をして献金を行うケースは、教会内では珍しいことではありませんでした。

多くの場合、宗教に入る理由は「ご利益」であって、献金やお布施というのも、感謝の表現であると同時に、「商売繁盛」「無病息災」「大願成就」といった願掛け(=ご利益への期待)だったりします。

しかし—。統一教会の献金は違いました。それは「ご利益」ではなく、「天のため」「世界のため」「先祖と後孫のため」という“自己犠牲の精神”によるものだったのです。

物販や伝道の入口で、「病気が治りますよ」「運勢が開かれますよ」「家庭内の悩みが解決されますよ」といった“トーク”が行われることはあっても、それは言わば、「信仰のない人」「信仰の幼い人」に献金を求めるための“方便”であって、「信仰をもった人」「信仰歴の長い人」は皆、ご利益を期待して献金している訳ではないのです。

最初はご利益で入信し、ご利益のために献金する人も多いのかもしれません。が、学びを進めていくうちに、いつの間にか、献金の動機が「自己犠牲」へと変わるのです。巷では、これを指して「マインドコントロール」と呼んでいるのかもしれません。

しかし、「利己的」な人間を「利他的」に変えるとすれば、私はその教え自体が“有害”であるとは思いません。宗教は常に、「ご利益」と同時に「自己犠牲」という側面を持っていました。宗教が教えるそうした精神が、人の心を豊かにし、社会を発展させてきたのではないでしょうか?

献金もまた、自らが大切にしている金銭を誰かのために捧げようとする貴い行為に違いありません。

であれば、献金の何が問題だったのか―。それは「方法」と「程度」と「目的」の問題であったと、私は思います。

このうち、「方法」の問題については既に述べてきた通りです。不安や恐怖、強制や強要による献金など、あっていいとは思いません。しかし、仮にその献金が自主的な動機、「自己犠牲の精神」によるものだったとしても、「程度」と「目的」を見つめなければならないと思うのです。

即ち、「どこまで」犠牲にしていいのか、そして「何のため」の犠牲なのか―。これらの点において、教会の献金の在り方は明らかに“不適切”でした。特に後者(何のために…)においては、教会本部が「問題はなかった」としている「2009年以降」にこそ、大きな問題があったと思うのです。

 

新世事件とコンプライアンス宣言  何が変わったのか?

2000年代には、3つの形態の高額献金が混在していました。80年代からの「物販」、90年代に広がった「摂理献金」、そして2000年代より主流となった「先祖解怨」です。

このうち、物販について言えば、80年代後半の大バッシングを受け、壺や多宝塔などの高額販売は中断されますが、90年以降も、印鑑販売をはじめ、絵画・宝石・呉服などの商品が、主に内部の信徒や伝道中の人を対象に、高値で販売されていたと言います。

当時はあくまで「霊感商法」(=霊的背景の話で不安や恐怖を煽り、高値で販売する手法)ではなく、開運や風水といった観点から販売していたと言いますが、中には、「霊能者」と言われる人々を用いて高額商品を販売する、かつての「霊感商法」が横行していたケースもあったようです。

世間を騒がせた、かの「新世事件」もそうした一例であったに違いありません。

2009年6月、教会本部のお膝元である南東京教区(渋谷)の関連業者から逮捕者が出たとの報に、本部内が色めき立ちました。

これは、『印鑑販売を営む有限会社・新世の社長、幹部、販売員5人の計7人が、特定商取引法違反(威迫・困惑)の疑いで警視庁公安部に逮捕された事件』(ウィキペディア参照)で、当時の日本教会・会長は、教会の組織的関与を否定しつつも、信徒に対する監督問題として引責辞任。同年11月、東京地裁より有罪判決が言い渡されました。

正直、教会関係者が販社を運営していた時点で、教会の組織的関与を否定できる訳はないと思いますが、教会は「縦割組織」であって、献金関連の情報はすべて部外秘。本部内であっても、関連部局以外、詳細は知り得ませんでした。ただ、当時、本部の関連部局が騒然となり、連日会議が行われていたことは覚えています。

さて、本部はこの時、「コンプライアンス(法令順守)宣言」と称し、正体を隠した伝道(勧誘)、並びに、威迫・困惑を伴う献金奨励はしないと公言。これ以降、「霊感商法として訴えられた問題は一件もない」というのが、教会本部の一貫した主張でした。

確かにこの時以来、教会関係者が直接、物販に携わることはしていなかったのかもしれません。が、自粛されたのは「外部」への物販であって、摂理献金や先祖解怨など、「内部」への献金追求が改められた訳ではありませんでした。

いえ、「外側」に向かえなくなったことで、「内側」への献金要請はむしろ強まったとも言われています。

 

家庭教育と献金摂理  父母たちの痛み

同年2009年4月、本部に「家庭教育局」が発足。これは、元を辿れば、二世教育を担当していた「二世局」が広がったもので、一世青年や父母をも含む「家庭全体」がその教育対象とされました。

私は二世局時代から教育部長として全国を巡回し、父母の方々と接する機会が多くありましたが、家庭教育局になって以降、二世の相談以上に、父母自身の家庭相談を受けることが多くなりました。

無論、献金相談がメインではありませんでしたが、家庭問題の背後には、常に経済問題がつきまとい、現場の献金摂理にストレスを覚えているケースも少なくありませんでした。家庭教育を進めようとすると、こうした「献金摂理」の課題に直面するのです。

献金要請に応えようと生活費を削り、借り入れを重ね、老後の貯蓄や子どもの学資保険をも切り崩してしまう―。そこには、小さな家族旅行を考えることすら、「贅沢な願い」のように感じられてしまう空気がありました。

親の在り方や二世教育の正論を力説したとしても、参加者から「心に響いた」という感想が寄せられたとしても、幾つもの個別相談に応じ、親たちの努力をサポートしたとしても、その効果は“半日ともたない”のが現状でした。家庭教育の集会があった翌日には、また「献金」が強調されるからです。

心にゆとりのない親たちに向け、家庭教育を語ることは、穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるような感覚でもありました。

親自身もまた、半生の間、家庭を顧みずに教会活動に没頭し、家族に犠牲を強いながら献金を捧げてきた立場です。子どもが既に成人し、親子間に溝を残した家庭においては、「今さら家庭教育と言われても…」というのが率直な反応でした。

信仰歴の長い父母たちにとって、「家庭教育」とは、“痛み”を伴う言葉でしかなかったのです。

 

現場教会のジレンマ  牧会者の苦悩

2013年1月、新たな総会長が赴任して来られました。私がちょうど献金の案件に関する切実な嘆願書を上申していた時のことです。

この時、一部署の訴えを真摯に受け止め、本部方針を転換してくださったのが、この新任の総会長でした。この方は、日本教会の課題や事情を本気で受け止めようとした、最初の総会長だったように思います。

その後、私は総会長によく呼ばれるようになり、「あなたが見た現場の状況や二世たちの声を聞かせてほしい」と言われました。最初の頃、私は総会長に次のような話をしたことがあります。

本来、家庭連合の基盤は「家庭教育」であるべきで、豊かな家庭が作れる団体になって初めて“伝道”がなされ、そこから“経済”も付いて来るはず。でも、現体制は真逆で、“経済(献金)”が全てに優先されて重くのしかかり、経済のために人を“伝道”し、その伝道のためのツールとして“家庭教育”を考えるという状況。この構造そのものを逆転させないと、現状は変わり得ないと思うのだ―ということを説明しました。

総会長に説明した際の資料(日本語訳)

総会長は深く頷かれ、その後、私は定期的に局長会議に入るように言われました。

総会長は本部でも現場でも、常に本質的な話をされ、殊に家庭教育を強調されました。

また、2016年2月には、「総合企画局」というシンクタンクが新設され、全国の献金体制や牧会者の評価体制の改善にも着手していくこととなります。(この時の人事部長として起用されたのが勅使河原氏です)

しかし、献金目標の追求、実績追求そのものがなくなることはありませんでした。それは、日本を越えた世界(韓国本部)から求められる事案であったからです。

当時、「本質的なことを求めるなら、まず献金摂理を何とかしてくれ」というのが現場の牧会者(教区長・教会長)の本音でした。「家庭教育が強調される一方で、献金も求められる。これじゃあ、アクセルとブレーキを同時に踏まれているようなものだ」と。

献金摂理で汲々としている牧会者の中には、「自らの牙城を荒らしてくれるな」と言わんばかり、家庭教育を露骨に拒む方々もいました。

しかし一方で、「家庭教育の話は痛いほど分かる。私も家に戻れば一人の父親なのだから…」と言われる方もいれば、「私は献金の使命で走り続けるしかない。だが、是非、教区内の信徒たちの家庭教育を助けてやってほしい…」と、切々と語られる方もおられました。

私はほぼ毎週末、全国の現場を周り続けました。そこには感動的な証や学びもありましたが、それ以上に、現場の痛みや苦悩を感じざるを得ませんでした。

 

豪華な教団施設の建設  信徒の犠牲は何のため?

日本教会の献金問題は、国内だけで解決し得る問題ではありませんでした。世界のあらゆる運営資金を日本教会に依存しようとうする、教会全体の構造問題があったからです。

2000年代初頭、こうした体制を是正しようとしていたのが、当時、次世代の後継者と目されていた三男・顯進(ヒョンジン)氏でした。

顯進氏の考える平和運動とは、信徒から絞り出す献金によって維持されるべきものではありませんでした。統一運動とは「ために生きる運動」であって、それが教団の利益を越え、本当に公益に適う運動になるなら、そのビジョンに賛同し支援する人々が現れる―というのが顯進氏の発想でした。

詳細は割愛しますが、既存の教団体制を廃し、各家庭が主体となって取り組む、宗派を越えた運動づくりを目指していた顯進氏が、韓国指導部によって“反乱分子”に追いやられ、組織から排除されていったのは、奇しくも、2009年のことでした。

それ以降、韓国指導部は改めて「組織化・教団化」の一途を辿ります。顯進氏を退けた指導部、並びに七男・亨進(ヒョンジン:日本語の発音は“顯進”と同じ)氏は、再度、「家庭連合」に代わって「統一教」という看板を掲げ(09年7月)、「教祖の絶対化」を進めていきました。

その方向性は、韓鶴子(ハン・ハクジャ)総裁が全権を掌握するようになっても(12年9月)変わらず、さらに加速されていったように思います。

教祖(韓総裁)の権威を高めるための理論が構築され、教団の権勢を誇るような豪華施設が次々と立てられ、あらゆる大会・集会の演出が高価で豪勢なものに変わっていきました。

かつて、イエス・キリストはこう言いました。「あなたがたは何を見に荒野に出てきたのか? 風に揺らぐ葦であるか?…柔らかい着物をまとった人か? きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら宮殿にいる。では、何を見に出てきたのか?」

信徒たちが信仰の道に入った理由は、こうした教団の栄華のためではありませんでした。魂の救いを求め、家族の幸せを求め、豊かな国作りと世界を願って、苦労を苦労と思わずに歩んできたと思うのです。

二世たちが親の信仰ゆえに、生活苦を余儀なくされてきたのは今に始まったことではありません。しかし、かつてそこには「神の国と義のため」という理想や誇りがありました。複雑な思いを抱いてきた二世たちが、後に統一運動の精神を知り、歴史を知り、親の歩みと志を知って、自分たちの“犠牲の意味”を見出し、留飲を下げることもありました。

しかし今、信徒たちの犠牲、二世たちの犠牲は、「何のため」なのでしょうか?

 

何のための献金、誰のための献金か?

私は教会活動のすべてを否定しようなどとは思いません。

全国の教会現場には、純粋な動機で奉仕活動に勤しんでおられる方々もいます。人知れず、地域のために心を尽くしている信徒たちも数多くいることでしょう。そうした活動が「統一教会系だから」という理由一つで、頭ごなしに否定されたり、過去に授与した表彰まで取り消されてしまう、といった事態は、明らかに行き過ぎです。

しかし今、信徒の家庭に多大な犠牲を強いてまで進めている教団中枢の大々的なプロジェクトについて言うなら、それは本来、統一運動が志向してきた家庭運動でも、平和運動でもありません。

かつては、あらゆる教会活動が「教団の布教やプロパガンダのためなのだ」等と報道されようものなら、「それは違う!」と反論できました。でも、今は「その通り」になってしまっているのではないでしょうか?

信徒に自己犠牲を教える教団が、自ら独善的な教団になり下がってしまうなら、それは致命的な自己矛盾なのではないでしょうか?

純粋に信仰し続けている信徒の皆さんにこそ、現状を冷静に見つめ直していただきたいのです。この教会がしていることが、本当に人々のためになり、世界のためになり、神の御旨に適うものであるのか―。

多くの記者の方々に言われました。「信徒には善良な人たちが多い」と。天のため、世界のために、と、自らの大切なものまで犠牲にしてきた方々の中に、悪い人などいないはずです。

しかし、だからこそ、皆さんの捧げる献金が一体「何のため」に用いられているのか(=献金の目的)を常に問い、自己犠牲を課すにも、「越えてはならない一線」(=献金の程度)があることを忘れないでください。

本当に大切なものを見失っていただきたくないと思うからです。

 

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