メディア報道 統一教会の信仰問題

統一教会への解散命令請求❷ ~信徒の自由と解放を願って [後編]

昨日16日、統一教会(教団)の記者会見が行われ、教団は改めて日本政府との対決姿勢を露わにしました。

教会組織としては最後までそのスタンスを貫き通すに違いありませんが、信徒の方々には、世間の誤解は誤解として、教会の課題は課題として、冷静に見つめていただきたく思います。

組織の課題まで背負い込み、いたずらに社会と対立していただきたくないと思うからです。

さて、[前編]では、私たちが払拭すべき信仰観として、「献金」に関する捉え方について記しました。今回はその続きから記していきたいと思います。

組織中心の信仰観からの脱却:本来のビジョンに立ち返る

幼い頃、私が肌で感じてきた教会とは、特定の目的を追いかける「組織」ではなく、信仰を共にする兄弟・家族の「共同体」(コミュニティ)でした。

しかしこれが80年代、経済体制の強化に伴い、目標達成を至上命令とするトップダウン型の「組織」に変わって行くのです。そして、この体制はそのまま、90年代以降の「献金体制」へとつながっていきました。

教会内の人間関係が「組織の上下関係」となり、公職者(牧会者)と信徒の関係も「指示と追従の関係」の色合いを強めてきました。

無論、どの団体でも、役割や役職に基づく秩序や上下関係はあるでしょう。しかし、統一教会の場合、特に「カイン・アベル」という原理が“誤用”されたことで、極端に「責任者(アベル)や組織の指示に従うことが信仰だ」とする根強い信仰観(組織信仰)と組織文化が築き上げられていました。

それがまた、個々が自ら判断し得ず教会の指示を待ち続ける、極度な「組織依存」にもつながっていたように思います。

【参照】組織信仰」の弊害☟ 

「カイン・アベル」とは、本来、組織上の役職等にかかわらず、より心霊の高い者(=心情のアベル)を通して神への心情を育むことを教えるものでした。一方、組織の責任者に対しても、彼を立てた天の意向を汲んで謙虚に学ぶこと、また責任者の支えとなり力となろうとすることが自己成長や全体の勝利につながる、といった教えであって、決して(教団内に見られたように)組織の指示に無条件的に従うことが信仰であるとか、反対意見を示すことが不信仰になる、といった考え方ではありませんでした。

そもそも教会(統一教会)とは、「神のもとの平和世界」という“目的”(統一運動のビジョン)を果たすための“ツール”(手段)に他なりません。

80年代以降、組織化が進み、多くの弊害も見られましたが、それでも、教会は理想(目的)のために存在するのであって、教会自体(の存続・拡大)が「目的」とされたことはありませんでした。

それが2000年代に入り、特に2009年以降(奇しくも日本教会のコンプライアンス宣言を前後して)、教会指導部(韓国)は「教勢拡大」へと方向性を切り替え、驀進して行くのです。

※韓国では、「家庭連合」の名称が再度「統一教」に戻され、超宗教へ向かう流れが逆行。「独特な宗教団体」としての性向を強め、教祖を証して国民の半分を「統一教」に改心させることが、全機関の目指す目的とされました。文総裁の逝去以降は韓総裁の過度な絶対化が進められると共に、“聖殿”建築プロジェクトが本格化。それが“中心摂理”のようになっていきました。

日本教会の良識的な指導者はこうした在り方に課題も感じていましたが、「教団化」に突き進む韓国指導部に追従する以上、組織信仰は強まるばかりで、二世教育(家庭教育)とのギャップも広がる一方でした。

本来、90年代半ばに「統一教会」から「家庭連合」への転換が打ち出された理由は、従来の教会中心の体制を“解体”し、個人と家庭が主体となって、人格完成・家庭完成を果たしていくことが正使命とされたからでした。

「組織目標の達成」が信徒の目的ではなく、「信徒個々の家庭の成熟」(→それを通した平和世界実現)が組織の存在目的とされたのです。

【参照】統一教会から家庭連合へ☟

今一度、考えてみてください。

個々の信仰成長と家庭の理想実現のために、信徒を統制するトップダウンの組織が必要でしょうか? 絢爛豪華な施設や宮殿が必要でしょうか? その運営を維持するための持続的、且つ際限なき資金調達のシステムが必要なのでしょうか? 

統一運動の方向性から見る時、教会組織の“解体”は本来、「外部」からではなく、「内部」から自主的に行われるべきことでした。今、起こっている悲劇は、“本来的でない体制”を整理し得ないできてしまったことから来る悲痛な結果だと思うのです。

過去、教会に問題が生じた際、信徒個人がその責任を担い、教会を守ろうとしてきた経緯もありました。諸先輩のそうした思いには頭が下がります。

ただ、これ以上、教会の責任を信徒が背負わされるべきではありませんし、組織を擁護するために末端の信徒たちをして日本社会と対立させることが天の願いだとも思えません。

組織の問題は組織が担うべき責任であって、信徒の責任は本来のビジョンに立ち返り、個人と家庭の理想実現に力を尽くしつつ、社会との信頼を回復していくことなのではないでしょうか?

私にとっても、教会は自らが生まれ育った思い出深き「家」でした。しかし、統一運動本来の信仰観から見る時、今、私たちが後世のために残すべきもの、守るべきものがあるとすれば、それは教会組織ではなく、人であり家庭であり、統一運動としての志や理想だと思うのです。

<補足> 組織自体が不要だと言いたいのではありません。家庭連合が本来志していたもの、即ち、信徒の家庭の成長をサポートする教育・相談センタ―、或いは相互間の親睦や地域社会とのつながりをもたらす地域コミュニティとしての役割等は、依然、必要であり大切であると思っています。

教祖中心の信仰観からの脱却:神への信仰に立ち返る

どんな宗教でも、信徒が教祖を慕うのは自然な情緒でしょう。特に初期には、創始者のカリスマと、それを慕う信徒の信仰熱が顕著に見られると言われています。統一教会も同様でした。

私自身、幼い頃から、文総裁夫妻を「親」のような存在として慕い、尊敬する思いを抱いてきました。その思いは今でも大切にしているつもりです。

しかし、教祖を“神”のごとく絶対視(=神格化)すること、言い換えれば、教祖は完全で全てを見通し、その判断に誤りはないと盲信することは、極めて“危険”だと思えてなりません。

【参照】「教祖の神格化」の問題☟

「教祖の神格化」の課題については、既に上の記事で取り挙げた通りですが、改めてここに記した理由は、これが今、最も深刻な「ボトルネック」になっていると思うからです。

献金問題にせよ、組織問題にせよ、日本教会の良識ある責任者たちの間には、昔から「問題意識」がありました。にもかかわらず改善され得なかったのは、“教祖の意向”に絶対的に従わなければならない、とする「信仰」があったからです。

これまで何度か「韓国指導部」の課題について触れましたが、たとえ日本教会の全責任者を日本人に変え、韓国指導部とのつながりを薄めようとしても、教祖からの指示を“絶対視”する信仰観を脱し得ない限り、問題は続いてしまうでしょう。

社会が反対しようと、国が問題視しようと、教祖に従うことが正しい、という発想では、統一教会の問題は解決できないと思うのです。

信徒の方々の誤解を恐れずに言います。

2009年以降、露わになって行った韓国指導部、韓総裁が掲げている「教団強化」の方向性は、社会の感覚からも、統一運動のビジョンからも、文総裁が掲げられた当初の理想からも大きく外れてしまっています! それに気づいておられる方々も内部に多くおられるのではないでしょうか?

信徒が生活苦に喘ぎ、家族が被害を訴えている傍ら、豪華な宮殿を建築し、大規模な祝祭を開き、高額の広告費をVIP渉外に投じる―、それを社会が理解し得るでしょうか? 私たちの良心が良しとするでしょうか? そのどこに「神の義」を見出すことができるのでしょうか?

今、直面している本当の危機は、解散請求による法人格喪失である前に、統一運動としてのアイデンティティの喪失であるに違いありません。

団体の名称も変えられ(天の父母様聖会)、根幹となる“教義”すら覆され(独生女論)、統一運動のアイデンティティまで塗り替えられているのに、なぜその根本的な問題から目を背けようとされるのでしょうか?

教祖を慕うことと盲信することは違います。私たちは教祖を「親」のように慕ってきました。しかし、“親”だって道を誤ることはあるはずです。その事実を認めることは、親を冒涜することなのでしょうか?

もし高齢の親が間違った方向に、危険な道に進もうとするなら、またそのことに気づいたなら、それに反対し、食い止めようとすることが、果たして不孝者の所業になるのでしょうか? 

統一運動が教えてきたこと、また文総裁が教えてきたことは、「教祖を信奉し、教祖の指示に従え」ではなく、「神を信じ、原理に則って生き、自らの良心の声に従え」ということでした。

統一原理が教える善悪の基準は「教祖」自体ではありません。神が敷かれた原理原則であり、普遍的モラルであるはずです。

そこに立ち返ることができて初めて、現在起こっている問題を俯瞰することができ、より自由で解放された視点から、神を信じる者として、統一運動の理想を信じる者として、今後の在り方を考えていくことができるのではないでしょうか?

この運動を社会にもう一度、正しく伝えていこうと考えるなら、逆に教会の負の部分も受け止め、従来の誤った組織論や信仰論とは明確に決別する必要があると思うのです。

多くの方々がこの運動に青春を注ぎ、思いを注ぎ、半生を投じてきたことを知っています。情熱を傾けてきた人であるほど、教会を愛してきた方であるほど、今の状況は極めて受け入れ難いものであるに違いありません。

しかし、そうした方々だからこそ、“負の遺産”を抱えた「教会組織」と命運を共にするのではなく、統一運動の志と理想、「神の御旨」と命運を共にして頂きたいと、心から思うのです。

 

【前後編】ポイント

・報道に偏りがあるのは事実でも、解散請求に至った根本原因は教団内の歪んだ組織構造であり信仰観であって、ここからの脱却が求められる。

・第一に、献金中心の信仰観からの脱却。原理は人格完成・家庭完成を教えるものであって、献金によって救いや天国がもたらされるという教えはない。

・第二に、組織中心の信仰観からの脱却。組織目標を追求する「教会」を解体し、個人・家庭の成長を進める家庭連合を築くことが本来の方向性だった。

・第三に、教組中心の信仰観からの脱却。信仰の中心は神であり、善悪の基準も教祖自体ではなく、神の定めた原則だというのが本来の信仰観だった。

・本来の統一運動に立ち返るためにも、従来の誤った信仰観との決別が必要であり、信徒が教団の課題や重荷から解放され、自由になることを願いたい。

-メディア報道, 統一教会の信仰問題