統一教会の歴史 統一教会分裂の真相

統一運動の正道と統一教会の終焉 ~自主的改革か? 強制的解散か?[後編]

前編で述べた通り、統一教会の終焉は、統一運動が進むべき本来の方向性であり、必然的帰結でした。

言い換えれば、教会組織が中心となって「全体目的」を推進する、上意下達の指示系統をもった「中央集権型の組織体制」は、90年代をもって“終焉”を迎えていなければならなかったのです。

体制が変わることなく迎えた2000年代、若い世代を中心に大きな改革運動が起こってきました。後編では、こうした改革の流れとその結末を簡単に記そうと思います。

 

"体制派"と"改革派" (00年代) ー 教会改革と二つの流れ

正直に言うなら、90年代、家庭連合に生じた矛盾—ビジョンと実体の食い違いは、一つには、体制の転換を謳いつつも、同じく日本教会に経済実績を求めた、文総裁の指導自体に要因があったと言わざるを得ないでしょう。

しかし同時に、教会という“城”を築いて信徒の上に君臨し、組織内での権益、権限を保持・拡充しようとする指導者層、既得権益層の政治的野心がまた、到底“正常”とは言えない組織体制を存続させてしまった大きな要因であったように思います。

当時、教会内には権威主義的な文化が蔓延し、牧会者と信徒の関係が「主従関係」のようになっている様子が随所に見受けられました。教会初期、家族のような文化の中で育った私たち初期の二世にとって、当時の組織内の上下関係は“異様”に思えてならなかったのです。

ここに劇的変化が起こってきたのは、98年7月、三男・文顯進(ムン・ヒョンジン)氏が家庭連合の世界副会長に就任した時からでした。いえ、正確には、同氏が本格的な改革に着手する2000年以降のことです。

顯進氏は当時、教祖や教会組織の権威を高め、信徒をその指示命令に従わせるような組織文化を根底から覆し、一人一人が「神のもとの人類一家族」実現というビジョンに生きる、本来の統一運動を再建しようとしたのです 。

言い換えれば、「統一教会」体制を終わらせ、「家庭連合」体制に変えようとしていました。顯進氏から見て、当時の教会の在り方は、統一運動のビジョンからも、家庭連合の理想からも逸脱したものになっていたからです。

だからと言って、顯進氏は過去を全否定するような立場から改革を訴えた訳ではありませんでした。同氏が2000年、最初の世界巡回で掲げた講演テーマは「相続と発展」というものです。

それは、世界を思い、あらゆる犠牲を払って歩んできた諸先輩方の伝統と精神を受け継ぎつつ(=相続)、我々は新しい時代にあって現状を変革・改革し、本来の統一運動を創り上げて行かなければならない(=発展)とするものでした。

詳細は次回以降に触れますが、顯進氏のこの改革の流れが、CARP(全国大学生連合原理研究会)を中心に、二世圏、大学生・青年といった若い世代に“変革”をもたらすのです。

私は二世公職者の先駆けであり、全国二世教育の基盤を築いた者の一人ですが、当時の改革路線なくして、その後の二世公職者の輩出も、二世教育の展開も、青年圏の復興も、全てはあり得なかったことでしょう。

しかし一方で、日本の献金摂理とこれを推進する教会体制は変わることなく、「先祖解怨」が新たな献金摂理の主流となって広がっていきました。

【参照】2000年代の先祖解怨とその課題

そのため、この時期には、CARPに代表される顯進氏主導の改革路線と、教会本体(及び清平)が主導する強固な献金体制という、相異なる「二つの流れ」が形成されることとなりました。

「体制派」と「改革派」という言葉こそなかったものの、当時、この二つの潮流が存在していたことは事実です。

私が所属していた二世局は、本部の一部局であって、組織的には「体制派」に属していたものの、明確に「改革派」の流れを汲んでいたため、改革派と体制派、CARPと教会本体の狭間にあって、相異なる意向の板挟みになることもあれば、両者間でバランスを取らなければならないこともありました。

今、三男・顯進氏を支持する立場は「三男派」と呼ばれていますが、当時、改革路線にあった二世圏、若い指導者たちは皆、「三男派」であったと言えるでしょう。

  

統一教と天の父母様教団(10年代) ー 統一運動からの逸脱

改革当初、顯進氏が最も危惧していた問題の一つが日本の献金問題でした。2000年代初め、最初にそこにメスを入れたのも顯進氏であり、過去最悪とされた組織体制を是正したのも同氏です。(詳細は次回以降)

本部の古株のリーダーなら、この事実を知っていることでしょう。しかし、ここから指導部との対立も本格化していきました。

統一運動に起こってきた“分裂”の真相については、またどこかで記そうと思いますが、一言で言うなら、「指導部の政治的画策」によるところが強くありました。

ただ、それもまた外的現象であって、分裂の根本原因は、他ならぬ「統一運動の方向性」を巡る対立にあったのです!

多くの信徒は、この運動の分裂の始まりが、顯進氏が兄弟たちや文総裁と対立して袂を分かったことにあった、と理解しています。なぜなら、それが過去十数年、指導部が宣伝してきた内容だったからです。しかし、それは“偏向報道”と呼ぶことすらできない、全くの“虚偽”でしかありませんでした。

顯進氏はこの運動が、教派や宗派を超えた「超宗教」の家庭運動であり平和運動であるとする、明確なビジョンを見据えていました。そして、そのためにも、教組中心・教会組織中心といった“古い殻”を打ち破らなければならないとも認識していました。

しかし同時に、同氏は教会指導部が韓鶴子(ハン・ハクジャ)総裁や兄弟たちを抱き込み、文総裁亡き後の体制固め―教組中心・教会組織中心の体制固め―を意図し、教組の権威や教会体制を強化しようとしている事実をも“知って”いたのです!

当時、顯進氏が真剣に危惧し、反対していたのは、統一運動を「一教団」へと逆行させようとしている動きに対してでしたが、指導部は顯進氏のそうした言動を、ことごとく「教祖への反駁」として仕立て上げていきました。

信徒の多くは「そんなはずがない」と思うことでしょう。文総裁が「全てを見通しているはずだ」と信じ、韓総裁が文総裁の意向と異なる方向性に進むはずがない、と信じているからです。

その思いは、私にもよく分かりますが、結果を見れば、一目瞭然でしょう。

2009年、顯進氏を責任者の座から降ろすことに成功した指導部と、彼らのバックアップによって教団内の権力を掌握した七男・文亨進氏(ムン・ヒョンジン:日本語表記は三男・顕進氏と同じ。後に“サンクチュアリ教会”を設立)は、韓国において、早々と「家庭連合」の看板を下ろし、「統一教」の看板を掲げました。

さらには、超宗教の平和運動の母体として創設されたUPF(天宙平和連合)の上に「統一教」を位置づけ、教組を明かすこと(=布教)をUPFの中心的役割と定めました。それは、明らかに、統一運動のビジョンに対する“逆行”でした。

文総裁の逝去(2012年)以降、今度は亨進氏が左遷される形となり、韓総裁が全権を握る形となりますが、「教団中心」の方向性に変わりありませんでした。いえ、教祖の権威を高め、教団の権勢を誇る「教団化路線」はさらに強まっていったと言わざるを得ません。

私自身、本部に在籍しながら、「文総裁と韓総裁の方向性の違いは、父性と母性の違いから来るものなのだ」等と自らを諭そうと努めてみたり、上がどうあろうと、自分たちが現場で真っ当な教育をし、良き文化を作り、二世圏を通して教会改革を進めて行けば、いつかより良い教会を作れるはずだ、と、そう考えようともしました。

顯進氏という改革の頭を失ったものの、日本教会内だけで言えば、改革しようとする意思はあり、過去「改革派」の流れを汲む若い青年リーダーたちも、年々、要職を占めるようになってきていたからです。

しかし、韓国を中心とする教団本部、“大本営”の在り方は、行けば行くほど、独善的な教団色を強めていくばかりで、少なくとも、私が本部に在籍し、毎週のように全国を回りながら見てきた実態は、終わることのない献金体制と組織文化の中にあって喘ぐ、現場教会と信徒の姿でした。

2020年、韓総裁自らが「家庭連合」の看板を下ろし、「天の父母様教団」という名称を掲げた時、私は既に教団から離れた立場にあったものの、「ついに“教団”となってしまったか…」と悲痛な思いにさせられました。

10年に及ぶ教派分裂の原因とその結実をそこに見たからです。

※韓総裁が「家庭連合」から「天の父母様教団」への名称変更を発表し、全世界に伝えてから数日も経たないうちに、再度、「家庭連合」の名称は残し、頭に「天の父母様聖会」とだけ付ける形に方針が改められた。本部内または現場からの強い反対意見が寄せられたことが窺える。

 

さいごに ー 自主的改革は可能か?

今に至るまで続いてきた「統一教会」の体制は本来、90年代を通して終焉を迎えるべきでした。もし、そうであったなら、山上家に起こったような悲劇は起こらなかったことでしょう。

2000年代、統一運動のビジョンに立ち返り、本来の家庭連合を作ろうとする動きも起こりましたが、改革半ばにして、教会指導部は改めて「教団化」に舵を切りました。そして、これに必死で抗い、正道を守ろうとした唯一の指導者を「分派の頭」に仕立てあげてしまったのです!

日本教会は(世界に遅ればせながら)2015年に家庭連合へと名称を変えますが、体質が変わっていた訳ではありません。“実態”が変わらないまま“名称”だけを変更した―、それが昨年、社会から批判された問題の本質でした。

はっきり言いますが、今の教団は「統一運動」でもなければ、「家庭連合」でもありません。これは単なる批判ではなく、過去、本来の家庭連合作りを共に目指していた者の一人としての実感であり、悲痛な現実です。

現指導部をトップとする旧態依然たる“統一教会”の組織体制を維持し続けようとする限り、社会は決してその存続を良しとはしないでしょう。

「自主的改革」ができるとすれば、それは今日に至るまでの舵取りの過ちを認め、現在のトップダウン式の組織体制を“自ら解体する選択”を決断する以外にないのではないでしょうか?

教団内には賢い方々が多くおられるはずです。しかし、どんなに知恵を絞っても、間違いを間違いとして認めず、現指導部の在り方を肯定・擁護し、その要請に応じ続ける限り、軌道修正のしようがないと思うのです。

繰り返しになりますが、統一運動本来の展望から見る時、「統一教会」は既に“終焉”を迎えていなければなりませんでした。

それが本来の「摂理的動向」であるなら、今、考えるべきは、現体制をどう“存続”させるのかではなく、どう“終焉”させるのか、ではないでしょうか?

私が外野からとやかく言える立場でないのは百も承知ですが、統一運動の中で誇りを感じてきた信徒や二世たちを知り、またその教会ゆえに深く傷ついてきた家庭や二世たちに触れてきた者の一人として、「犠牲最小限」の道が見出されることを心から祈ります。

 

【前後編】ポイント

・統一運動本来のビジョンと信仰から見る時、統一教会(教会中心の組織体制)の終焉、解体は必然的な帰結だった。

・統一教会は神の下の平和世界実現を目指す統一運動の一環であり、これを支える基台であって、教会自体の維持、拡大が目的ではなかった。

・90年代、組織を中心として全体目的を追求する統一教会体制は幕を下ろし、個人と家庭を主体とする家庭連合体制に転換されるべきだった。

・2000年代、統一教会体制を保持しようとする指導層に対し、若者層を中心に、本来の統一運動、家庭連合体制に向かう改革運動が起こった。

・しかし2010年代、指導部が体制維持と教団化に向かう方向に舵を切ったことで、家庭連合は教祖・教会中心の新たな教団へと変貌を遂げた。

・日本教会が「自主変革」(統一運動への回帰)を果たせるとすれば、それは従来の在り方を是正し、現体制を自ら“解体”することだと考える。

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