周知の通り、今月3日、旧統一教会(以下、教団)の解散命令請求が、早ければ10月中旬を目途に進められていることが報じられました。
7日には、教団が100項目以上の回答を拒否していることを理由に、文科省が東京地裁に過料を科すように請求。
これを受け、翌8日には、教団側が記者会見を開き、そもそも質問権の行使自体が“違法”であり、元より回答を全面拒否することもできたのであって、過料請求には徹底抗戦する、といった見解を示しました。
今後の行く末は分かりませんが、「国が教団の解散請求に向けて舵を切った」というのが紛れもない事実であり、向き合うべき現状なのだろうと思います。
私の方にも、今週に入って数件、記者の方々から質問がありました。
どこまでも個人的見解に過ぎませんが、ここでは昨今、回答してきた内容を記しつつ、今改めて教団に願うこと、また日本社会に求めることを、思いつくままに記してみたいと思います。
■今回の過料請求についてどう思ったか?
過料請求に関しては、質問権の行使が合法だったのかどうか、解散請求を求め得る要件があったのかどうか等、どこまでも法律上の内容に及ぶため、正直なところ、専門家の見解や司法の判断に頼らざるを得ないかと思う。
ただ、元より、組織としては、当然、自ら不利益を被るような回答はできないだろうし(黙秘権はない?)、そもそも質問権をもって教団の実態を把握することには限界があったように思う。(国もそれを承知で質問権を行使していたのでは?)
また、記者会見での質問にあったように、未回答の項目がどのような内容だったのか(単に重複した質問であったり、個人のプライバーに関わることだったのか、それとも組織運営の根幹に関わることだったのか等)が一切、非公開とされている以上、良し悪しを判断するのは難しいように思う。
■解散請求については妥当/不当だと思うか?
この問題は、どちらに転ぼうとも被害は免れないと思ってきた。解散命令が出されれば、信徒の混乱は避けられず、職員のリストラ等による新たな被害も生じ得る。(彼らにも家族があり、二世たちがいる。)
かと言って、解散請求を出さなかったとなれば、多くの被害者の声を無視する結果となり、今後も、教団の課題に目を瞑り続ける、といった事態を招きかねない。
解散請求に舵を切ったということは、教団の課題について、日本社会がそう判断したのだと重く受け止めるべきだと思う。
教団の活動を含む、いわゆる「統一運動」には、多大な社会貢献を果たしてきた「公益的な側面」と、信徒の家庭生活や二世個々の人生の破綻を招いた「反社会的な側面」の両面が存在していたと言わざるを得ない。
教団が指摘するように、反対派や一部メディアがこの運動の一面ばかりを取り上げ、半ば「反社」のように切り捨ててしまっていることには違和感を覚えてならないが、逆に、勝共活動等の対外的な功績をもって、教団本体の負の部分から目を逸らさせ、被害者の問題を矮小化させようとする教団の姿勢もまた、公正さを欠いてしまっているように思う。
諸外国から見れば、今の統一教会バッシングは常軌を逸した感があるに違いない。が、それだけの問題を放置してきてしまったことの問題の深刻さを、今一度、自覚しなければならないのではないだろうか。
宗教法人が公益団体としての信頼から、税制上の優遇処置を受けている事実を思えば、多くの被害者を出している時点で、その資格を持ち得なくなることは、致し方ないことと思える。
「刑法違反がなければいい」とか、「民法なら違法行為があってもいい」というのは、そもそも宗教的価値観に即した視点ではないと思う。
ただし、解散命令・法人格剥奪が即、(税制上の優遇処置の撤廃や会計の透明化、被害者への補償ということを越え)法人資産の全処分に直結してしまう点については、あまりに被害が甚大ではないだろうか…との憂慮・危惧は拭えない。
■教団内の内部改革は進んだと思うか?
内部にいないため、正確なことは分からない。ただ、日本教会内で言えば、過度な献金活動の在り方や献金中心体制に対する“問題意識”は、遥か以前から常にあった。
過去、2000年代、若い世代を中心に、統一運動本来の在り方を求め、改革運動が起こってきたが、今、日本教会にいる二世指導者の多くは、当時の改革の流れを汲む立場であって、献金体制にも強い問題意識を感じてきたはず。
しかし、なぜこうした体制が抜本的に改められることなく続いてきてしまったのか。それは、こうした献金要請が日本教会の意図を越え、“韓国指導部”から発されるものであって、トップの意向に沿うことが信仰であるとする、根強い文化と構造があるため。
昨年の事件以降、日本教会としては懸命に改革しようとしてきたのだと思うし、そうした努力を否定したいとは思わない。しかし、根本的な構造は、依然として変わっていないように見える。
教団が推し進める全世界の活動は、今なお、日本を収入源としており、全世界が自立体制へと切り替わったといった発表は聞いていない。また、韓国での建築プロジェクトを推し進める限り、外的規制さえ解かれれば、また、日本教会への献金プレッシャーは強まらざるを得ないだろう。
日本教会は、こうした韓国指導部に追従し、日本社会と乖離していくのか、それとも、韓国指導部と袂を分かち、日本社会との関係回復に努めるか、そのどちらかしかない、というのが率直な所感だった。
ちなみに、教団の肥大化ばかりを求める現指導部の在り方は、本来の統一運動(=超宗教の平和運動)からの著しい逸脱であって、そこから脱却する以外に、日本教会の正常化は困難であると思える。
■解散請求が出された場合の課題は? 必要となる解決策は?
<教団に願うこと>
解散請求が出る・出ないにかかわらず、教団内の「信仰観」が正されない限り、根本的解決はあり得ない、というのが当初からの意見であって、今もこの考え方に変わりはない。
解散請求が出されようと、教団施設の拡充や、際限なき先祖解怨献金を続けることを是とする信仰が残る限り、熱心な信者ほど無理な活動を続けるだろうし、家族の苦悩は解消し得ず、親の老後(無年金・生活保護・自己破産)を背負わされる二世たちとの親子間の溝も埋め合わせることができないだろう。
一般的には、信教の自由があるから信仰には踏み込めないと言われるが、私は信教の自由があるからこそ、信仰問題が正されないといけないと思ってきた。
そもそも、献金することで救われるとか、組織の指示に従わなければ不信仰である、といった考え方は、本来の教義、教えには一切ない。従来、社会から問題視されてきた教団内の問題は、ことごとく、統一運動本来の教えではなく、そこから逸脱し、組織論によって大きく歪められた「誤った信仰観」でしかなかった。
【参照】組織信仰の課題 https://sakurai.blog/archives/583
昨年より起こってきた社会からのバッシングは、本来の統一運動の信条と精神、理想から逸脱したことから起こってきたのだと強く思う。そのため、統一運動本来の信仰に立ち返ることだけが唯一の解決策であって、「国による宗教弾圧だー!」と主張し、内部でそう説き続けることは、信徒たちを一層、日本社会から乖離、孤立化させていくことにしかならないだろう。
教団内において、「なぜこうした事態に至ったのか」に対する、より本質的な理解と自省・内省を促すことができて初めて、(信徒を教団に依存させるのではなく)信徒の自立や社会との関係回復を助けられるのではないかと思う。
<日本社会に求めること>
一方で、日本社会に求める事項として、教団(教会組織)の問題と信徒の問題とを一緒くたにしてしまってはならないと思う。
教団が問題だからと言って、それを理由に、信徒が職場を辞めさせられたり、社会から排他されたり、二世がイジメに遭ってもいい、等という風潮が容認されてはならないはず。
それはあたかも、「教団が問題なのだから、信徒を拉致監禁して強制脱会させてもいい」というような乱暴な論理と一緒で、「被害者救済」という社会正義が、他方の人権侵害を許していい訳ではない、と思う。
解散請求によって、信徒の人権が尊重されず、宗教や信仰に偏見をもつような社会になってしまうなら、それはもはや、「統一教会問題」を越えた日本社会の問題となり、民主主義の根幹に関わる問題となるのではないだろうか。
(先に、根本的解決を図る上で信仰の問題を論じはしたが)今、国が教団を問題視しているのは、教団による社会的問題に対してであって、特定の信仰に対する差別などではないはず。であれば、信徒個々においても(彼らの行いや社会生活に問題があって問題視されるのは当然だとしても)信仰ゆえに差別される謂われはないと思う。
敢えて言うなら、教団に対し反対している方々ですら、「教団信徒には良い人が多い」とコメントしているように、純粋にこの運動のビジョンや価値観を学んできた信徒たち、 特に二世たちには極めて健全な人たちが多い。(問題はひとえに、信徒を誤導してきた、逸脱した信仰指導と歪んだ組織構造にあったと言える。)
教団職員(教育者等)でも、組織の矛盾を感じつつ、葛藤を覚えつつ、それでも信徒や二世たちのため、より良い環境づくりのために教団内に踏み留まっている人たちもいる。また、社会生活をしているケースであれば、社会常識があるからこそ、教団の在り方に疑問を覚え、心を痛めている人々も少なくない。
教団系企業でも、社会と信頼関係を結びながら事業展開している方々などは、社会との関係よりも、教団内部の柵(しがらみ)に苛まれつつ、健全な会社運営のために努力し続けている人々もいる。教団と関係ある個人や企業をすべて「社会悪」のように見なし、社会から締め出してしまうことは、新たな問題の温床にしかならないと思える。
法人剥奪に踏み切るなら、逆に「信徒に優しい社会」であって欲しい。そうしてこそ、信徒たちも社会から乖離することなく、また新たな“依存先”に走ることなく、社会との関係の中で、自らを見つめ直すことができるのではないだろうか。
内部の信徒、特に二世たちの人権を尊重することは、被害者救済と同時に必要であり、被害者の人権を守ることと同じく大切なことではないかと思う。