去る11月7日、旧・統一教会(以下、教団)の田中富広会長が、勅使河原秀行(教会改革推進本部)本部長と共に記者会見を実施。昨年8月以来初となる教団トップの会見ということで、「なぜこのタイミングなのか」「会見の目的は何か」に注目が集まりました。
当然、「解散命令請求」が出されたことを受け、教団としての「組織防衛」に向けた会見となることが予想されましたが、同時に「謝罪」や「引責辞任」の話も飛び出すのではないか、と囁かれていました。
会見の様子は終了直後から各メディアを通して報じられ、既に様々論じられていますが、それらを見る限り、「同じ主張の繰り返しだった」「反省の色が見えなかった」「幕引きねらいの会見だった」といった辛辣な意見が数多く見受けられます。
私自身、教団の課題については極めて深刻に受け止めている者の一人ですが、会見そのものについては別の感想を抱きました。
ここでは、会見の内容を簡単に振り返りながら、論点と思えた部分を取り挙げつつ、私自身の思うところを述べてみたいと思います。
会見のポイント【まとめ】
①辛い思いを抱いた方々へのお詫び
・冒頭で、田中会長よりお詫びの言葉が述べられ、会長・本部長共に頭を下げた。
・但し「謝罪」(=被害者が特定した上での表現)ではなく「お詫び」であるとした。
②教団の対応と改革の説明
・昨年の事件以降、教団は返金要請に丁寧に応じ、集団交渉にも対応していると説明。
・教会改革の経緯と結果(トラブル激減)を踏まえ、教団が解散請求の条件に該当しないと強調。
③国に対する供託金の提案
・国が進める「財産保全法案」(=後日生じ得る献金被害者への補償の原資確保)は不要と指摘。
・教団に資産の海外移転(財産隠し)を図る意向はなく、不安払拭のため最大100億円の「特別供託金」(裁判終了まで国に財産を託す)を拠出する案を提示。
④その他
・一国民として生きる信者への理解を求める/信者が被っている被害状況について言及(質疑応答)
・宗教二世に対するサポートの実施状況を説明/反日団体だという指摘への反駁 等。
以下、上記①②の論点に焦点を当てると共に、質疑応答の中で述べられていた「信者の被害」について、思うところを述べてみたいと思います。
※私は普段、「信者」よりも「信徒」という言葉を好んで用いていますが、ここでは記者会見上の言葉にならい、「信者」と表現します。
「謝罪」ではなく「お詫び」?
今回の会見は「お詫び」から始まりました。最初に会長より、これまでの説明不足、配慮不足のゆえに辛い思いをしてきた方々へのお詫びの言葉が述べられ、会長・本部長共に深々と頭を下げました。
昨年の事件以降、教団側が「お詫び」をするのは初めてのこと。遅きに失した感はあるとしても、謝意を示したことは大切なことだったと私は思います。
しかし一方で、その“お詫び”が決して「被害者への謝罪」(=教団が被害を出したことを認めた上でのお詫び)を意味するものではない、としたことから、「全く反省の色が見えない!」「心証を良くしようというパフォーマンスでしかない!」といった批判を招く結果となりました。
教団の立場からすれば、教団自体の“違法性”については、今後「法」に則って判断されるべきことであって、その前(裁判前)に教団トップが教団の過ちや罪(違法行為)を認めたとされかねない言質を残す訳にはいかない―ということなのでしょう。
しかし、被害を被った方々からすれば、当の教団が「被害を与えた」と認めていない訳ですから、先日の会見を見ながら、ただただ「苛立ちや憤りを覚えた」とコメントされるのも無理もないことと思います。
責任を負おうとせず、被害者を出した認識さえないまま、「お詫び」と言われたところで、そこには何の真心も感じないだろうし、そのお詫びには「意味がない」としか思えないのでしょう。
ただ……、こうしたことも全てひっくるめて、それでも私は、あの「お詫び」には意味があったと思っています。
教団内には、自分たちの活動によって傷ついた人々に対し、心から申し訳なく思っている人々も少なくないと思うからです。組織論ゆえに公言できないとしても、教団にこそ問題があったと感じ、心からお詫びしたいと思っている良識的な人々も多くいると思うのです。
田中会長の「お詫び」は、そうした人々の思いを代弁しているようにも思えました。
もっと踏み込んで言うなら、田中会長も、勅使河原さんも、元は献金体制を“改革”したい側の人たちでした。変えられなかったのは、もっと大きな“背後の力”によるものです。
そうした背景を知る立場から見る時、前任者の誰もが責任を取ろうとせず、謝罪する姿勢すら示さずに来た中、改革しようとしてきた人たちが矢面に立たされている現状に、複雑な思いも抱かされました。一個人として、であれば、むしろ心から謝罪したい方々であっただろうと思うからです。
そもそも、教団内には「お詫びの言葉」など発すべきでない、という強硬論もあったことでしょう。「組織防衛」だけを考えれば、問題発言のリスクを広げるだけだからです。
それを推して、お詫びの言葉を述べたのだとすれば、それは意味のあることだった……私はそう思います。
無論、それだから教団の組織問題が看過されていい、などと言いたいのではありません。ただ、組織と人は違いますし、組織の意向が必ずしも個々人の意向を代弁している訳ではありません。
被害者を被害者と見ない教団の中にも、申し訳なく思っている人たちはいて、苦しい思いを抱いて来られた“被害者”の方々に対し、強い責任を感じている人々もいる……、そのことを一言、述べておきたいと思いました。
「組織」ではなく「信者」の責任?
今回の会見で、最も多く時間が割かれていたのは、教団のその間の対応と改革についての説明でした。
昨年の事件以降、教団には664件の返金要請があり、一件一件丁寧に対応してきたこと、既に44億円の返金に応じてきたこと、124名の集団交渉(約39億円)にも誠意をもって向き合っていること……等々。
質疑応答での受け答えも含め、教団が(また会長自身が)現場の課題と真摯に向き合ってきた様子が伺えました。
また、勅使河原本部長が2009年以降の改革の経緯を改めて解説。
数値上、献金トラブルが激減している事実をグラフで示しながら、これは「組織的な努力」によるものであって、国が解散請求の条件として指摘する「組織性・継続性・悪質性」はいずれも教団の現状には該当しないと訴えました。
繰り返されてきた主張とは言え、教団内のこうした努力や結果については客観的に評価されるべきでしょうし、過去と現在の状況とを同一視して批判すべきではないと思います。
ただし……、多くの人々が教団の記者会見を聞きながら、毎回釈然としない思いにさせられるのはどうしてなのでしょうか?
それは恐らく、教団がどこまでも“正当性”を主張するのみで、「じゃあ、なぜここまで多くの問題が起こって来たのか!?」に対する回答、 “問題の原因”に関する説明がどこにも見当たらないからでしょう。
多くの人々が被害を訴えているという「結果」があるのに、何がどうしてそれが起こってきたのかという「原因」は見えない……、腑に落ちないのも当然なのだと思います。
今回の記者会見から見るなら、「親の信仰の熱心さゆえに」「(現場の)伝道者の説明不足ゆえに」「信者の行き過ぎた行動ゆえに」「当法人の指導が行き渡らなかったがゆえに」課題が生じてきた―という説明でした。
要するに、教団(法人)の方針や指導に問題があった訳ではなく、それが行き渡らないことで生じた現場の不手際や、行き過ぎた信者個人の課題にあらゆる問題の原因がある、という話にしかなりません。
「信者個々人ではなく組織の体質が問題を引き起こしたとは思わないか」との記者からの質問についても、「そうは思わない」という回答でした。
確かに、教団本部が直接、社会通念に反するような指示を発信することは控えてきたに違いありません。しかし、現場教会や信者の家庭に負荷がかからざるを得ないような指示、無理を強いなければ(=普通の取り組みをしていては)達成できないような献金目標を課せ続けてきたのは事実だったと思います。
一方では家庭の重要性やコンプライアンス遵守を説きながら、他方では(本来のものとは言えない信仰論を掲げて)目標達成を迫る―、それは現場の教会長の言葉を借りるなら、「ブレーキとアクセルを同時に踏まれているような状況」であったとしか言えないでしょう。
そして、こうした目標はまた、日本教会を越えたところから来るものでもありました。それが単に“現場”の問題であり、信者個々の“行き過ぎた行動”によるものだったと言えるのでしょうか?
私は日本教会内の改革の努力を否定したいのではありません。外圧による解散が根本的解決策だとも思っていません。
しかし、「何が教団の根本的な問題であり、どこを是正しなければならないのか」を明確にしない限り、またそこを曖昧にし続け、問題に蓋をし続ける限り、たとえ改革の成果を訴え、過去の活動実績を訴えても、日本社会からの信頼を取り戻すことはできない、と思うのです。
別の記事で述べてきたため、詳細は省きますが、数々の問題を生み出してきた教団内の根本原因は、外的には「韓国指導部の方針とそれを頂点とするトップダウン型の組織構造」にあり、内的には、信者にそうした構造を受容させるのに用いられてきた「誤った信仰観の問題」であったと、私は思います。
【参照】 是正・脱却すべき信仰観
①献金中心の信仰観(⇔統一原理)
②組織中心の信仰観(⇔統一運動)
③教祖中心の信仰観(⇔神への信仰)
☞「統一教会への解散命令請求❷」[前編] [後編]
【参照】 カルト性を生み出す要因
①【独善性】ビジョンの喪失
②【閉鎖性】教義・教えの変質
③【排他性】教祖の神格化
☞「統一教会の信仰とカルト問題」[中編] [後編]
質疑応答の折、「今は海外送金を凍結しているとは言え、世界の教団活動が日本からの献金で賄われている構造では問題が再発するのではないか?日本の独立性を確保しようという意向はないか?」との質問が挙がりました。
その際の答弁の内容は「日本教会は元より独立しており、世界本部からも、各国法人は各国の法律に則って自立運営せよ、との方針が出ている」というものでした。本当にそうなのでしょうか?
日本教会が韓国指導部の指揮下になかったなら、日本本部は国内の教会や家庭にここまでの無理を強いることはなかったでしょう……。
また、韓国本部は昨年の事件以降も「宮殿建築」の推進を止めることなく、また大々的なイベントを開催し続けてきました。
韓国本部が本当に今後、日本に多大な支援を求めないと言えるのでしょうか? また、いざそうした要請があった時、日本教会はその要請に「No」と言えるのでしょうか?
これは現教団の信仰観(教祖中心・組織中心)に直結している、極めて根本的な課題であるに違いありません。
組織の性質の一端を知る者として、容易でないことは分かっていますが、願わくば——、強制的に解体させられるよりも前に(総括すべきことを総括し、補償すべきところに補償を行うと共に)本来的ではない誤った信仰観と組織構造とを自ら解体し、是正していただきたいと思っています。
「信者」に対する差別の中断を!
田中会長は冒頭の説明の中で、多くの信者は「為に生きる」という価値観を大切にし、幸せな家庭や平和な社会作りに向けて日常生活を営んでいる一社会人であり「普通の日本国民」であると述べていました。
その通りだと思います。統一運動本来の教え(統一原理)を学ぶことで「社会に害をもたらす」ようになる、などとは到底思えません。
実際、過去から現在に至るまで、こうした理念に則り、生涯にわたって、国や世界のための平和活動に従事し、地域活動に励んでいる多くの信者の方々がいます。
問題を起こしてきたのは常に、信者を統括する教団の組織構造であり、その体制維持のために都合よく歪曲された「誤った信仰指導」にありました。上述した通りです。
しかし、今の世論は「統一運動」そのものを貶め、健全な理念に沿って生きようとする信者たちまで一緒くたにして断罪してしまうようなことをしています。「良いものは良い、悪いものは悪い」と、明確に区別すべきだと思うのです。
無論、ここには教団の責任もあるでしょう。教団は統一運動の公的実績や信者たちの健全な歩みをもって、教団内の組織問題から目を逸らさせようとしてきました。そこには大きな問題を感じます。
しかし、日本社会が教団の組織問題をもって信者個々人を差別し、糾弾することは、さらなる被害と社会悪を生み出すことにしかならないと思うのです。
記者からの質問を受け、田中会長が昨年の事件以降に見られた信者への差別的状況について言及されました。
曰く、教団信者だと知られたことで、会社を辞めさせられた青年がいて、内定を取り消された学生がいた。
教団職員であるが故に借家の契約を打ち切られ、保険証に教団名が書かれているのを見て病院での受診を断られた。教会に嫌がらせ電話や殺害予告が続き、刃物や不審物が届いた……。
信者たちの中には、教団内の課題に苦悩しつつも、家族ぐるみで築き上げてきた関係性ゆえに地域教会につながっているケースもあります。
二世たちの中には、教団とは距離を置きつつも、学んだ価値観を大切しながら健全に社会生活を送っている青年たちが多くいて、中には、社会をより良くしようと、公益的な事業を立ち上げ、それに尽力しているメンバーもいます。
教団系だと色づけられている企業の中にも、むしろ教団の指導とは一線を画し、職員の生活を守り、社会と良好な関係を結んでいるケースもあるのです。
教団が語るような被害状況ばかりが全てだとは思いませんが、上記のような信者に対する差別や糾弾は、健全な感覚をもって社会の中で堅実に生きようとしている信者たちをも、逆に社会の側から排斥し、教会の枠内に閉じ込めてしまうような結果をもたらしかねません。
日本には信教の自由があるはずです。
組織の問題は組織の問題として公正に裁かれるべきでしょうし、信者側にも教団の問題に対する客観的な認識や理解(さらには偏った信仰観の見直し)は必要だと思いますが、個々人が信仰ゆえに糾弾されるような社会になってしまってはならないと思うのです。
あの場で、信者の被害状況についてご質問くださった記者の方には感謝したいと思います。
是非、今後のメディア報道においても、教団の問題追及だけでなく、信者に対する差別的行為に対しても目を向け、健全な信仰生活を営もうとする一人一人の日常が守られるような社会づくりをお願いしたいと思います。
今回のポイント
・被害者への「謝罪」ではなく、組織防衛を見据えての「お詫び」に終始した点で批判は免れないが、内部の謝意を表したものとも感じられた。
・教団の対応と改革の努力は見られたが、教団内の問題(構造問題・指導問題)を認めようとしない限り、社会との信頼回復は困難に思える。
・教団の問題と信者は分けて考えられるべき。多くは健全な社会生活を送る一国民であり、信仰故に差別される社会になってはならないと思う。