先日26日、文科省は旧統一教会(以下、教団)に対し、7回目となる質問権を行使しました。
こうした繰り返されるやり取りに、「解散請求はもはや暗礁に乗り上げているのではないか」という声もあれば、「国は着々と証拠固めを進めているのであって、今夏にも解散請求が出されるだろう」とも言われています。
仮に解散請求が出され、「教団解体」という方向に向かう場合、信徒に与える不安や混乱は大きく、信徒個々の社会生活に支障が生じたり、教団職員の家族が路頭に迷うといった、新たな悲劇も生じかねません。
「信教の自由を侵害された!」とする声も挙がることでしょう。
しかしまた一方で、解散請求が出されず、「教団存続」という方向に向かう場合、逆に教団の正当性が認められる形となり、教団内にも「やっぱり自分たちは間違っていなかった」とする空気が生まれ、被害者救済どころか、今後も“信仰”の名のもとに被害が続いてしまう事態にもなりかねません。
何が「正しい答え」なのかは判断しかねますが、私が思い続けてきたことは、以前も今も、「信仰観が正されなければならない」という一点に尽きます。
「自分たちは間違っていない!」と信じ続ける限り、解体されても、されなくとも、良い方向には向かわないと思うからです。現状の課題を認めることなくしては、「自主的改革(変革)」も起こり得ず、「強制的解散(解体)」を受け入れることもできないでしょう。
そしてまた、“本来の信仰論”から見る時、少なくとも、現教団の在り方―中央集権型の組織体制—そのものは“解体”されなければならないと思うのです。
「統一教会の終焉」とは、元より、統一運動自体が進もうとしていた“本来の方向性”であり、必然的帰結でした。
今日に至るまでの問題は、言わば「統一教会」が統一運動の正道から外れ、その“非本来的な形”が改められることなく“存続”してきてしまったことの結果とも言えるのです。
今回はこの辺りをテーマに、統一運動の流れを概観しながら、問題の本質について言及してみたいと思います。
統一教会と統一運動(-80年代)ー 国と世界のために生きる
このブログの最初の方でも触れたように、「統一運動」とは、政治・経済・文化・芸術等、あらゆる分野の活動を通して、「平和世界」(神のもとの一家族世界)を築こうとする総合的な運動を言います。
その運動の中にあって、特に宗教分野を推進する母体となったのが「統一教会」に他なりません。
と同時に、統一教会は本質的には、統一運動を下支えする基台であって、信徒たちは皆、「平和世界実現」という統一運動の目的のためなら、どんな分野であろうと―それこそ宗教活動の枠組みを越えてでも貢献する、といった精神を抱いていました。
したがって、統一教会のために(その布教や教勢拡大のために)統一運動が作られた訳ではありません。その逆、統一運動の目的を果たすために集った群れが統一教会だったのです。
そもそも「統一教会」は外部から付けられた呼称であって、正式名称は「世界基督教(キリスト教)統一神霊協会」。
即ち、世界のキリスト教を(教派・宗派を超えて)糾合し、神の真理と神霊によって、共に神が理想とされた平和世界を実現する「協会」(Association)であろうとしたのが出発点であって、決して、特定の「教会・教団」(Church)を作ろうとした訳ではありませんでした。
したがって、統一教会はあくまで平和世界実現のための“手段”であり、“一時的形態”であって、教会自体の存続・維持・拡大に目的があった訳ではなかったのです。
このことは、教組である文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁自身が「統一教会の目的は統一教会が要らない平和世界をつくることだ」と断言していたことからも分かります。
70~80年代、統一運動の中核は「勝共運動」でした。平和世界実現のためには、何よりもまず「世界の共産化」を防がなければならないとする強い使命感・召命感のもと、特にアメリカを拠点に、政治・言論分野をはじめとする、あらゆる活動が展開されていきました。
殊、日本における経済活動、「霊感商法」(80年代)という資金調達の在り方には、極めて大きな課題がありましたが、その動機と目的はどこまでも、一教団の存続や拡張、栄華や奢侈などではなく、日本の国防と世界の平和構築といったところにあったのです。
【参照】80年代の霊感商法とその課題
統一運動の精神、初期統一教会の精神とは、「為に生きる」というものであって、かつてイエス・キリストが「まず神の国と義とを求めよ(それ以外のものは添えて与えられる)」と説いた、その教えを地で行く集団が統一教会であったに違いありません。
私が幼少期に見た教会は、そうした高い志をもった人々の集まりであり、国や世界を愛する情熱と信念をもった群れでした。私自身、親が勝共活動だ~、国際ボランティアだ~、海外宣教だ~と言っては、家庭を顧みる間もなく国内外を飛び回る、そんな姿に、不満を感じたこともなくはありませんでしたが、そんな教会の精神がとても好きでした。
しかし、日本教会は次第に、「目的のためには手段を選ばず」といった実績至上主義に陥っていきます。経済中心の組織体制が肥大化することで、古き良き時代の教会文化が廃れていったのでしょう。
私は80年代後半から90年代後半まで、10年近く韓国に留学していましたが、帰国後、その教会の変わり果てた姿に、心底、驚かされました。
私が当時の教会に見たものは、かつて見た家族文化と活気溢れる信徒の姿ではなく、経済一辺倒となって実績を追求し続ける硬直化した組織と、その中で憔悴し、疲弊し切った信徒たちの姿だったからです。
統一教会と家庭連合(90年代)ー 平和な世界は理想的家庭から
90年代初頭に起こったソ連崩壊と冷戦体制の終結は、それまでの世界秩序を大きく一変させる結果となりました。
これを受け、統一運動も、徹底した「反共路線」から「平和路線」へと切り替わっていきます。
しかし、それは何も、統一運動が時流におもねって自らの本質を変化させた、という訳ではありません。統一運動の目的は、元より「反共」「勝共」そのものではなく、「神のもとの平和世界実現」にあったからです。
※91年、反共主義者と知られた文総裁が訪朝し、金主席と対談した理由は、北朝鮮自体に主体思想・赤化統一を放棄させることで、武力統一による戦火を避け、平和統一に向かう道筋を立てるためだった。(教団の宣伝目的やビジネス目的のためだったなら、そこまでのリスクを冒して死地に飛び込むことなどしなかっただろう。)
※90年代以降の勝共運動は、政治体制としての共産主義と対峙するというより、共産主義思想がもたらす思想的・文化的影響(家庭崩壊・性解放・LGBT…等)を「文化マルクス主義」と称し、これと対峙する形で活動を続けてきている。
文総裁は92年を越え、93年に新たな時代の到来を宣言。94年には「宗教時代」(教会時代)の終焉と共に、「家庭時代」の幕開けを宣布します。
96年には、それまで統一運動を支えてきた「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)の看板を下ろし、新たに「家庭連合」(世界平和統一家庭連合)の看板を掲げるに至りました。
※96年4月に掲げられた名称は「世界平和家庭連合」。翌97年4月、韓国において「世界平和統一家庭連合」として名称変更が成され、これが正式名称となる。
それはひとえに、「国のため、世界のため」と、個人や家庭を顧みずに、それこそ滅私奉公の精神で走り抜いて来た既存の在り方に終止符を打ち、「世界の平和は私自身の心と家庭の平和から作る」という新たな信条をもって、個人と家庭の成長・成熟を目指す運動へと大きく舵を切ったことを意味していました。
もはや教会という組織が中心となって“神の摂理”を進めるのではなく、一人一人、一家庭一家庭が主体となって理想家庭づくりを進めるのが“摂理”であって、そのように生きる個々の家庭を連合し、その取り組みをサポートするのが「家庭連合」の正使命とされました。
したがって、統一教会から家庭連合への転換とは、メディアで報道されたような「正体隠しの手段」でもなければ、教団が釈明したような「単なる名称変更」でもありません。それは統一運動の方向性を決定づける「根本的な構造改革」を意味していたのです。
※文総裁は90年代、「還故郷」「氏族メシヤ活動」という方針を強調。全信徒が各々の故郷に戻り、自らの実体(為に生きる活動)を通して、各地域で平和運動を広げることが奨励された。これは事実上、既存の教会体制の“解体”を意味する方針だったとも言われている。
これはまた、信徒たちを「本来の教え」に立ち返らせる方針でもありました。
統一原理の説く人生の目的とは、ひとえに、①人格の成熟、②理想家庭の建設、③平和世界の実現(環境創造)の三段階であって、平和世界の礎はあくまで個人と家庭にある、というのが教えの根幹にあるからです。
それまで信徒が教会を中心とし、個人と家庭を犠牲にしながら“摂理”を進めてきたのは、不可避的な「時代の要請」であって、決して“本来の在り方”ではありませんでした。家庭連合の創設は、その本来の在り方に立ち返ることを意味していたのです。
しかし、結論から言うなら、「統一教会」が「家庭連合」体制に切り替わることはありませんでした。
むしろ、80年代の霊感商法(外部への物販)がバッシングを受け、内部信徒からの献金頼りとなった90年代の経済活動は、過去最悪と言われる献金中心の画一的な組織文化を作り上げていったのです。
【参照】90年代の献金摂理とその課題
借金に借金を重ね、親族にまでも負債を抱えさせ、教会が信徒に自己破産を勧める―。過去の歴史問題(日本の罪の因縁)が大々的に強調されたのも、この時期のことと言われています。
これが98年当時、私が日本に帰国し、教会の公務に付きながら最初に触れた教会の生々しい現実でした。統一運動の展望から見る時、これはあってならない在り方だったのです。
(後編に続く)※下記は後編目次