統一教会の現状

安倍元首相銃撃事件から2年 ~ 何が変わり、何が変わっていないのか?

2年前の今日—。平和な国・日本において、白昼堂々、元国家元首が犯人の凶弾に倒れるという信じがたい速報に、日本全土が衝撃に包まれ、多くが耳を疑ったことでしょう。

その数日後、この事件が旧統一教会に対する怨恨から引き起こされたという背景が報じられたことで、国民の悲嘆と憤怒の矛先はその教団へと向けられました。

かけがえのない人物を喪ったことへの悲憤と共に、皮肉にも、犯人の置かれた悲痛な境遇が、多くの「宗教二世」の“共感”を呼んだからです。

事件の真相究明も大事でしょう。しかし、教団に関わってきた立場から見るとき、この問題は教団の積年の課題の現れであって、自省すべき事件であったと痛感させられました。

それが当時、私がメディアに文書を投稿した理由です。

先日、ある記者の方から、「この2年で教団の何が変わり、何が変わっていないと見ていますか?」と尋ねられました。

何が変わり、何が変わっていないのか―。

暫く記事を更新していませんでしたが、「事件からちょうど2年」という節目に合わせ、今思うところを簡単に記してみたいと思います。

※教団内では依然、私が“反対派”に同調し、教会や信徒を“攻撃”しているかのように捉えるきらいがあるようです。判断はお任せしますが、少なくとも、私が最初に記した投稿文に目を通していただけることを願います。尚、下記は1年前に記した「まとめ記事」です。参考にしてください。

 

日本社会の変化 ~統一教会の魔女狩り(?)と宗教二世問題の噴出

事件以降、「統一教会」という名称は日本中に知れ渡ることとなりました。それは、「信者から無慈悲に献金を巻き上げる“反社会的団体”」として、です。

私自身、教団の組織問題にはシビアな観点を持っていますが、統一運動の過去の功績まで、教団の政界進出の手段であったとして一面的に報じられ、関連団体と接点をもっただけで(関係の濃淡に関わらず)全議員が吊るし上げに遭い、集会場の貸出しまで拒まれる―といった過剰な反応には「行き過ぎだ…」という感が否めませんでした。

しかし、韓国「清平」を拠点に、次から次へと(もはや何の一貫したセオリーもなく)信徒に際限なき献金を求め続ける教団の献金体制については、“外圧”をもってでも是正されるべき課題であると捉えてきました。

それはそもそも、統一運動本来の教えや信仰からもたらされたものでも “ない‼” からです。

こうした「不適切な宗教活動を規制すること」と「信教の自由を守ること」と、どう折り合いをつけるべきなのか(→「反セクト法」の是非)、どこまでが宗教活動として容認され、どこからが反社会的行為として糾弾されるべきなのか(→いわゆる「カルト問題」)等、「宗教の在り方」が問われるようになったことも、事件以降の大きな変化であったに違いありません。

そして何よりも、2年前の事件以降、大きくクローズアップされたイシューとは、言うまでもなく、「宗教二世」の問題でした。

踏み込んで言うなら、国や社会、世論に多大な影響を及ぼし、今日の「解散請求」へと舵が切られる引き金となったのは、小川さゆりさん(仮名)をはじめ、それまで水面下にあって看過されてきた、二世たちの苦痛と苦悩に満ちた声でした。

私自身、教団に在籍中、人一倍、「二世の声」を聞き続けてきた者の一人です。こうした声がすべての二世を代弁するものではないこと、二世たちの中には教団のポジティブな側面に触れてきた二世たちも多くいることを知っています。

しかし、親の宗教活動によって、厳密には「教団の非本来的な組織構造や信仰指導の弊害」によって、大きな苦痛を経験してきた彼らの声は、決して看過されてはならないものであったと、強く思います。

教団内に見られた変化 ~本部の対策と声を挙げる二世たち

「今が一番平穏かも…」。事件が起こった年の暮れ、とある現役の信徒から聞いた言葉です。

高額献金を巡る大々的なバッシングを受け、教団本部は海外送金を中断し、10万円以上の献金には受領証を出し、不安を煽るような献金奨励は行わない等、コンプライアンス(法令順守)の徹底を強調。

また、借金による献金を規制する等の事項を盛り込んだ「被害者救済法案」(22年12月)の制定も相まって、(過去の献金取消までは行えないものの)献金が無理強いされることのないような状況が敷かれました。

「外圧」によるものとは言え、これも事件以降の「教団内のポジティブな変化」と言えるでしょう。

その他、教団本部は(部分的であれ)返金要請への個別対応、相談員による相談サポート、若い二世牧会者の育成と登用等といった対策を掲げ、これを進めてきました。

解散請求を免れるためのパファーマンスだったとする声もありますが、仮にそうだったとしても(また、救済され得なかった方々の不満は残るとしても…)これも日本教団内の自助努力であったに違いありません。

教会改革のためのアクションプラン(家庭連合HPより)

ただ、教団内に見られた、より重要な変化があるとすれば、それは外部同様、内部の「二世たち」が声を挙げるようになったことだと、私は思います。

教団が事件直後から実施してきた数々のデモ集会は、正直、“組織の意向”によるものであり、参加者の多くも“動員”であったように思えました。

しかし少なくとも、二世たちが始めたシンポジウムは、彼ら自身の「自発的な意図」による企画であり、発信であったように思うのです。

信者の人権を守る二世の会(HPより)

外部のジャーナリストや弁護士など、昨年から今年に至って、「教団側」の主張に共感を示す人々(=日本社会の行き過ぎた統一教会バッシングに異を唱える人々)が現れるようになったことにも、二世たちの取り組みが関連しているに違いありません。

無論、彼ら二世たちの多くが体験してきた“教会”とは、「二世部」(学生部・青年部)を指すのであって、それは元より教会本体が進める献金体制とは一線を画すものでした。

そのため、彼らは「教団の負の側面」をよく”分かっていないから”こそポジティブな発言ができるのだ、とも取れるかもしれませんが、少なくとも、二世たちにとっては教団内で培われたポジティブなコミュニティがあって、彼らが心から誇りに思える居場所がある、ということもまた、日本社会に知っておいてもらうべき一面なのだと思います。

変わらない教団の本質 ~中央集権型の体制と組織信仰

自分たちは決して間違っておらず、日本社会が不当な弾圧を行っている―。それが、事件当初から今に至るまで、教団の変わらない(変わろうとしていない)スタンスであるように思います。

献金体制についても(教団にとっては)“宗教行為”を理解していない日本社会の偏見であり、宗教迫害に過ぎません。

献金のやり方に問題があったとしても、それは「信徒個人」の、或いは「現場担当者」の行き過ぎた取り組みのせいであって、「教団本部の指導や体制」の問題ではない――のです。

これに対する私の意見は、文書を投稿した当時から変わっていません。教団の本質的な課題は“構造”の問題であり、それを是とする“信仰”の問題にありました。

統一運動の教え(統一原理)は、特定の宗教や組織を越え、人として守るべき「普遍的原則」(→倫理道徳)があると教えています。

その本質は「他のために生きること」であり「より全体のために生きること」であって、そうした価値観がより健全で良識的な信徒や二世を育成してきたに違いありません。

しかし同時に、教団内には、別のルールが存在していました。それは「教会組織の指示」に従わなければならない―とする“非”本来的な信仰であり、構造に他なりません。

現在の教団においては特にそれが顕著でしょう。

信徒に自主的な意見がない訳ではありませんが、詰まるところ、教団トップの指示には「右に倣え」なのです。たとえそれが、統一運動のビジョンや原理に反していても―です。

統一運動の目的は、宗教の枠を越え、「神のもとの一家族世界」を目指すことであって、教団の基盤を広げることでも、教祖の権勢を高めることでもありませんでした。

原理の教えに従うなら、教会は理想的家庭を作ることに寄与し、その家庭は(特定教団の栄華や繁栄のためではなく)国や社会のために生きる――のです。

ある記者の方から尋ねられました。「“超宗教”を謳いながら、自教団の豪華施設を立て続けることに、信徒は矛盾を感じないんでしょうか?」

統一運動のビジョンを知り、原理を信じる人なら、誰でも疑問に思っているはずです。もし本当にその感覚すら無くしてしまっているとするなら、事態はより深刻でしょう。

ある時点から、教団の言う「超宗教」は表向きのスローガンとなり、本質的には、教祖の権勢と組織基盤を広げる「特殊な教団」へと変わっていきました。

統一運動のビジョンや原理を信じる人からすれば、自らが信じていることと、教団が志向していることが“違う”のです! 

信徒の皆さんに改めて質問させてください。

今、教団が苦境に立たされている根本原因が、本当に、社会の無理解と宗教弾圧のためだと、本気で考えておられるのでしょうか? もし本当にそう考えておられるなら、国や社会との溝は一層深まっていかざるを得ないでしょう。

私には、教団本体が統一運動本来のビジョンと教えから大きく逸脱してしまったこと―、それが、現在の問題をもたらした根本原因であるとしか思えません。

日本教会が内部改革をしようと必死に努力しているのは分かります。しかし、問題の本質は(文総裁の遺志とも異なる)「教団中心部・指導部の方向性」そのものにあり、「トップに右に倣え」で追従してしまっている日本教会の構造と信仰にあると思うのです。

日本教会がその構造を断ち切れないなら、少なくとも、信徒個々が「組織信仰」を脱し、現状を直視すべきであって、現教団をただ無条件的・盲目的に信じ込み、突き進んでしまうなら、信徒の方々まで問題のある組織と同一視されてしまうでしょう。

私がメディアに文書を投稿し、今の教団の在り方を「統一運動ではない!」とはっきり訴えた理由は、多くの方々が生涯を賭けて守ってきた統一運動の本来のビジョンと伝統を守るため、です。

また、文総裁の遺志を誤解させないためであり、信徒の方々を「現教団の組織問題」と切り離すため、です。

今の教団を絶対的に信じ、本気でその方向性を肯定し支持しているというなら、私に言えることはありません。でも、もし今の在り方に疑問を覚え、「これは違う!」と訴える思いがあるなら、まずは「組織信仰」から脱し、統一原理のビジョンと教えに立ち返っていただきいと、心から願います。

まず大切なことは、組織でも、所属先でもありません。統一運動本来のビジョンと信仰に立ち返ることです。そうすればきっと、自らの進むべき新たな方向性と道筋が見えてくると思うのです。

今回のポイント

・【社会の変化】 2年前の事件から、日本社会の統一教会批判は過剰なまでに強まり、水面下で看過されてきた宗教二世問題が浮き彫りとなった。

・【教団の変化】 2年前のバッシングを機に、法令順守や信徒サポート等、教団内にも変化が見られ、内部の二世たちが声を挙げるようになった。

・【教団の課題】 現指導部を追従する組織構造や信仰には未だ変化が見られず、本来のビジョンや信仰に立ち返らない限り根本解決はないと思う。

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