メディア報道 統一教会の現状

統一教会・法人解散を巡って ~ 解体されるべきもの・守るべきもの

はじめに

判決に至った理由としては、長年にわたる過度な献金活動が「法令に違反し、著しく公共の福祉を害するもの」とされ、「宗教団体の公益目的を著しく逸脱した行為」とみなされたことにありました。

こうした判決を受け、ある人々は「どうしてこんなことが…」と落胆し、ある人々は「これは不当だ!」として抗議の声を上げました。一方では、「ようやく胸のつかえが下りた」と安堵する人々がいて、また、この結果を歓迎しつつも、教会と自らの出自との“切っても切れない因縁”に苦悩する二世たちの姿がありました。

私は、教会の中で救われ希望を見出した人々と、その逆、教会ゆえに苦悩し、人生を翻弄されたとする人々の双方に触れてきました。

それゆえ、現状に対しても複雑な思いを否めませんが、第一審の判決と人々の反応、先日25日の教団記者会見の様子等を見つめながら、私なりに感じたこと、思ったところを、率直に述べてみたいと思います。

解散請求は妥当なのか ー 審理への疑念と解散による影響?

記者会見の中で、教団側は終始、裁判が不当であったと主張しました(文末のまとめ参照)。

教団側の反論が十分に審理されることなく結論が下されたとし、「結果ありきの裁判だった」との見方を示しています。

仮に、教団の主張の通り、陳述書に虚偽や捏造が見られ、教団側の反論・反証が無視された中、“結果ありきの裁判”が行われたと言うのであれば、それは多くの疑念や批判の余地を残すものになるでしょう。

私自身、教団のあり方にはシビアな視点をもっていますが、裁判そのものは、当然のことながら、「公正」でなければならないと考えています。

日本の司法が、世論や大衆の感情論、政治的思惑によって左右されるようなことがあってはならないと思うからです。「宗教法人の解散」となれば、殊更でしょう。

この辺りは今後、専門家等による詳細な分析や詳細を待ちたく思います。

尚、以前から述べてきたように、私は教団の組織問題には深刻な課題を感じてきました。が、それでも、「解散」という措置には、少なからぬ懸念を抱いてきました。それがもたらす被害が甚大だと思うからです。

教団の活動が諸々の家庭問題を引き起こしてきたことは事実でした。教会の内情を知る者であれば、「被害者はいない」などとは、口が裂けても言えないでしょう。

冷静に見るなら、宗教法人としての優待措置の見直しや被害者への補償、違法な献金や海外送金への規制などは、課せられて然るべきだと考えます。

実際、教団内の献金活動や韓国本部への送金にブレーキがかかったのは、皮肉にも、内部改革によるものではなく、安部元首相の銃撃事件以降に起こってきた、社会からの“外圧”によるものでした。

しかし、「法人解散」ということが、国による監視や規制、優遇措置の剥奪といったことを越え、即、法人資産の没収や礼拝拠点の喪失、職員の解雇を招く対処になるのであれば、それはもう一つの大きな被害を生みかねません。教団にもまた、数多くの職員の生活があり、家族がいるからです。

また、教団内には、現教団の在り方にむしろ問題意識を抱きつつ、ただ粛々と健全な信仰生活を送り、良心的に社会生活を営んでいる信徒たちもいます。

このブログで何度か繰り返してきたように、少なくとも、「組織」と「信徒」とは区別されるべきであって、「教団組織」への厳重な対処を求めるなら、その一方で、「信徒個人」や「信徒の社会生活」が脅かされないよう、それこそ、彼ら個々人の「信教の自由」が守られるよう、国や社会が見守っていくことが大事だと思うのです。

【参照】 解散命令請求について思うこと

教団の主張は真実なのか ー 見えない被害と変わらない構造

一方で、記者会見でも見られた教団の変わらない姿勢――、言わば、教団側こそ不当な宗教弾圧の「被害者」であって、あくまで「自分たちの非は認めない」とする在り方には、とても共感できませんでした。

勿論、それが「組織防衛」の観点からの発言であることは分かります。しかし、だからといって、教団がこれまでに引き起こしてきた、行き過ぎた活動の影響を「被害」とは認めず、「謝罪」を拒み続けていては、人々の目にも、「誠意ある対応」として映らないはずです。

被害者の訴えにしても、仮にそれが周りから“助長”されたものであったとしても(それでいいと言いたいのではありませんが)「だから被害は“なかった”のだ」とは言えないでしょう。それらを一概に、「作り上げられた被害者」だと切り捨ててしまっていい訳がありません。

先に「裁判は公正でなければならない」と述べました。世論や感情論によってではなく、どこまでも、法と証拠によって是非を問うのが裁判だと思うからです。教団が主張するように、「被害者」としての認定も、法の判断によって定められるべき部分があるのでしょう。

ただ、宗教を信じる者として、信仰をもつ者として、「法に触れなければ人を傷つけてもいい」などとは思いませんし、裁判で認められない限り、「被害者はいない」などとは言えないはずです。

私が全国の教会現場を巡りながら触れてきたものは、声を上げる力を持たない、声ならぬ被害者たちの声でした。善良で真面目な信徒であるほど、それでも、「自分が信じて献金したのだから」とそう捉え、家族や子どもを犠牲にしてしまったことを悔やみつつも、教会を責めるより“自分を責める”ことを選んでしまう―、そんな姿でした。

無論、自らの家庭問題をもって教会を逆恨みするようなケースもあるでしょう。しかし多くは、教会を純粋に信じて家族を犠牲にし、そのことを深く悔やみながらも、公の場で声を上げるには至らない―そうした信徒の方がよっぽど多いのではないでしょうか?

私たちは、そうした「見えない犠牲」の存在に向き合い、その重みを振り返る必要があると思うのです。

教団側が主張するように、2009年のコンプライアンス宣言以降、裁判件数が大幅に減少したのは事実なのでしょう。しかし、献金に対する強いプレッシャーはその後も続いていました。それが私の実感です。

そして、そのような状況が続いてしまった根本原因は、正に、無理を推してでも献金し続けなければ運営できないような、韓国本部を中心とした「教団全体の組織構造」の問題と、それを良しとしてしまう「誤った信仰体系」にあった――、私はそう思っています。

【参照】 教団の信仰観の何が問題か?

解体されるべきもの・守るべきもの ー 統一運動の精神と信徒を守るために

過去、無理をしながら、身を粉にしながら、信徒が犠牲を払ってきたのは、それでも、国のため、世界のため、という一途な信念ゆえでした。勿論、目的が正しければ手段を選ばなくていい、などとは思いません。過去の“やり方”については、真摯に反省すべきでしょう。しかし、少なくとも、信徒たちは「救国救世」の理想を掲げ、高い志ゆえに、犠牲をいとわず取り組んできました。

2009年以降の問題はむしろ、統一運動のそうした理念やビジョンを失い、それこそ「世界のため」の活動が、「教団のため」の献金活動に変質しまったことにあると感じています。

社会には様々な宗教があり信仰があります。現教団においても、本人が自ら信じて献金を行うというのであれば、その信仰を否定することはできないでしょう。ただ、それでも敢えて言うなら、「献金によって救われる」などという教えは、統一運動本来の教えの中に“ない”のです。

統一原理の解く天国とは、個々の人格成長と家庭平和によってもたらされるものであり、教祖を信じて天国に行く訳でも、教団の権勢を拡大することで築かれるものでもありません。

先祖を解怨・解放する前に、まず解放すべき人たちはもっと身近にいるはずです。教団の宮殿を建てることは、信徒自身の家庭を犠牲にしてまで行うことではないはずです。

「今回の宮殿さえ完成すれば“献金摂理”は終わるんだ」—そう語る方もいます。しかし、建物が建ったなら、それを維持するためにまた「新たな献金」が必要とされるでしょう。実際、清平での先祖解怨は今や、「恨霊の分立」という新たな献金へと移り変わって行っていることが知られています。

以前から述べてきたように、問題が解決し得ないのは、「教団のための教団」と化してしまった韓国本部中心の組織構造であって、それに必要な献金体制持続のために放置され、助長されてきた、“非本来的”な信仰体系ゆえでしょう。

今、“解体”されるべきは、人々が心から信じ、誇り、生涯を捧げてきた統一運動の精神でも、ビジョンでもありません。「他のために生きよ」という文総裁の教えでもありません。

また、善良な信徒たちが共に祈りを捧げ、親睦を深めるために育んできたコミュニティでも、二世たちの教育や家庭をケアするためのサポート体制でもありません。

真に解体されるべきは、「法令違反」とされる以前に、私たち自身が守るべき本来の信仰や精神、統一運動のビジョンから逸脱してしまった、現教団の組織体制と信仰体系なのだと思うのです。

現在、日本社会から問題視されているのは、私たちの“信仰”そのものではなく、“歪んだ組織構造の問題”であり、人々が今、不審の目を向けているのも、私たちが心から信じる“本来の信仰”ではなく、献金中心、霊界中心、教祖や教団中心に偏った、“誤った信仰体系の問題”だと思うのです。 

解体すべきものを、解体しましょう。もっと大切なものを守るために―です。

【参照】 信徒の自由と解放を願って

【参照】教団記者会見の要点整理(まとめ)

<田中会長>

■解散命令は不当かつ信教の自由の侵害
:民法違反に基づく解散請求は、信教の自由を脅かす異例の判断。民事の敗訴判決自体、15年以上前の事案であり、既に解決済み。
■証拠の信頼性に重大な疑義がある
:文科省が提出した陳述書に虚偽や捏造があることは証人尋問でも判明。多くは「拉致監禁・強制脱会被害者」によるもので、供述の信頼性に欠ける。
■解散による社会的・人道的影響を懸念
:教団解散は1600名の職員、家族を含め約4000名の生活に影響を与える。10万名の信者が信仰の拠り所を失い、偏見や差別が広がることを危惧。
■日本の民主主義の危機との闘い
:解散理由のない教団に対し、今回の判決は国家による信教の自由への侵害。国連勧告も無視した日本の民主主義の危機を国際社会・宗教界に訴えて行く。

<福本弁護士>

■解散命令の“空中戦”を批判
:教団は“地上戦”(具体的な反証)をもって陳述書の虚偽・捏造を暴いた。裁判所が“空中戦”(未審理の案件)を根拠に不法行為を“推定”したことは不当。
■陳述書の問題点を指摘
:陳述書の多くに虚偽や捏造があった。例として幾つかの証言の矛盾を詳述。周囲の証言、録音記録とも食い違いがあり、教団側は客観的証拠で反証。
■「拉致監禁問題」の主張
:過去4300件の拉致監禁事件があり、判決で認定された例(後藤裁判)もある。解散命令の根拠とされた民事裁判も、この拉致監禁に起因するものが多い。
■政治と法解釈の問題
:「推測による不法行為の認定」は法治国家としてあるまじき判断、強く批判する。今回の判断は、他宗教団体にも波及し得る極めて危険な事態として警告。

<記者との質疑応答>

■謝罪の意思について
:被害者に謝罪がないのはなぜか?一方的な主張こそが解散を招いたのではないか?
(回答)被害を受けたとされる人々とは向き合ってきた。献金返還請求にも応じている。
■継続性とコンプラ宣言後の対応
:コンプラ宣言後も訴えは起こっていた。「継続性」があるとされる可能性をどう思うか?
(回答)裁判件数の激減が改善の証。被害相談も「行政処分に値する案件」ではなかった。
■返金対応と“組織責任”の有無
:事件後の返金件数(882件/57億円強度)こそ組織問題の表れなのでは?
(回答)返金の多くは信者の生活事情を配慮したもの。「返金対応=(悪質)被害」ではない。
■陳述書提出者への“被害者認定”
:被害を訴えてきた人を「被害者」と認め、「謝罪」するという姿勢には至らないのか?
(回答)陳述書提出者は拉致監禁による“作られた被害者”「被害」とは判断し難い。
■教団に批判的な元信者への誹謗中傷
:教団に批判的な元2世らがネットで誹謗中傷されている事態についてはどう捉えるか?
(回答)心痛く思う。現役信者であれ脱会者であれ、誹謗中傷されてはならないと考える。

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