統一教会の信仰問題 統一教会の現状

統一教会の信仰とカルト問題 ~公益的団体か? 反社会的カルトか?[後編]

【排他性】教祖の神格化と崇拝 ー 神への信仰か? 人間崇拝か?

※前回(https://sakurai.blog/archives/678)からの続きになります。

宗教に限らず、「熱狂的運動」の中心には、決まって「カリスマ的人物」が存在するものです。

「カリスマ的指導者(教祖)への熱狂的支持(崇拝)」は元より “カルト”(学術用語としてのカルト=新宗教)の特徴とされ、実際、新宗教はそうした創始者の「カリスマ的権威」によって牽引されることが多かったと言われています。

※カリスマとは、人を惹きつける超人的資質や能力を言い、社会学者ウェーバーは「新宗教」(セクト)を牽引するものが(従来の慣習による)「伝統的権威」でも、(合法的・民主的手続きによる)「合理的権威」でもなく、指導者の超越的能力(及びそれを熱烈に信奉する追従者)によって形成される「カリスマ的権威」によるものだと指摘した。(→多くは組織化・制度化に伴い「合理的権威」に移行するものと考えられた)

初期の統一運動、統一教会も然り、文鮮明総裁のカリスマによって牽引されてきたものでした。それは他の宗教にも広く見られることであって、創始者を慕い、絶大な信頼を寄せることは、至極、自然な現象であるに違いありません。

しかし、そうした教祖の権威が度を越えて“絶対視”されるようになる時——教祖の判断は絶対であり、ただ信じて従うべきであって、万民が教祖を信奉するようになるべきだ、といった“先鋭化した信仰”に流れる時——そこに、“カルト化”に向かう数々の病理や弊害が生まれるのだと思うのです。

それは恐らく、次のような課題でしょう。

 

❶盲目的信仰と思考停止

「カリスマ」とは、往々にして、教祖自身の「超越的能力」によるばかりでなく、追従者の「熱狂的信仰」から生まれる、とも言われてきました。無論、それ自体が問題だとは思いませんが、そこにひと度、教祖を過剰に“絶対視”し、神格化する集団心理が醸成された場合、人々のもつ冷静な判断基準や批判能力が著しく失われてしまうのです。

理性的、且つ良識的に考えて理解し難かったり、納得しかねるような内容であっても、それが「教祖の指示だ」と言われた途端、批判能力が失われ、「思考停止」に陥ってしまうケースを見てきました。

今の教団を見る時、信徒の判断基準は、個々の良心でも、モラルでも、原理の教えでもなく、「教祖の言葉」だと言わざるを得ないでしょう。それに抵触するような考え方や意見には目もくれず、ただ「教祖の言葉だけを信ぜよ」となるのです。

信仰とは、不断の「問いかけ」を通して育まれるものであって、信徒の「自主性」というのも、自らの人生における問いの答えを、御言(真理)や祈りをもって“自ら追い求める”中で培われるものです。

一定の判断基準を欠き、自主性を失った「盲目的信仰」は、信徒の依存体質を助長するばかりか、他の疑問や批判、異論や反対意見を容認しない「排他的文化」を生み出してしまうでしょう。

 

❷教会組織への服従と従属

本来、教祖に対する敬愛や恭順の思いは、信仰を育む貴い要素であり美徳に違いありません。しかし、教団内においては、教祖に対する信徒のそうした信仰が、組織の権威付けや組織目的の遂行に“利用”されてきた側面が色濃く見られました。

無理難題に思える組織の指示に、それでも信徒が従ってきたのは、それが「教祖の意向」だと考えられていたからです。教祖の判断に間違いはないと信じ、自分たちの事情も全てご存知でその指示を出しているものと信じたからでした。

しかし、当然のことながら、教祖は「神」でもなければ、全知全能でもありません。現場の実態も、信徒の置かれた“本当の事情”も、教会指導者を通して聞かされる以上には知り得ないのです。

私は一信徒として、文総裁の「精神的指導」には心からの信頼を寄せてきました。しかし、一つ一つの「組織的指示」については深刻な課題を感じざるを得ませんでした。

文総裁は組織運営のプロでもなければ、判断材料を指導者たちの報告に頼らざるを得ない以上、判断に誤りが生じたり、現場の状況にそぐわない指示を出すこともありました。日本の献金問題などはその典型でしょう。

しかし、それが「教祖の指示」だとされた瞬間、信心深い信徒であればあるほど、従わざるを得ない「絶対的指令」に変わってしまうのです。

これまで“マインドコントロール”だとして批判されてきた教団内の「服従と従属の文化」は、不安や恐怖による統制というよりも、「教祖の神格化」がもたらせた“誤った信仰観”による弊害だったと思うのです。

  

❸指導部の腐敗と“宮廷政治”

教祖を取り巻く中枢の指導者たちの中に、教祖が本当に全知全能で、全てをお見通しだと本気で信じていた人がいたでしょうか?

少なくとも私には、指導者たちがそれを本気で信じているようには見えませんでした。

もし信じていたなら、自らの実績を“事実”以上に膨らませて報告したり、自らの案件に教祖の許可をどう取り付けようかと気を揉む姿など見られなかったことでしょう。

それでいて、「絶対化された教祖の権威」は、指導者たちが自らの立場や主張を権威付けするのに、とことん“利用”されていたように思います。

教祖との距離が指導者のステータスとなり、二言目には、「これは教祖の指示だ」「教祖から認められている」「教祖が評価したのだ」ということが強調されました。

※同じ指導者でも、教祖を純真に慕っている人と、教祖の威を借り、自らを高めようとしている人とでは、人格・品格からして違いました。ここに記していることは、全ての指導者の人格を否定するものではないこと、書き添えておきます。

教祖の周囲、韓国指導部の中には、予てから、他を牽制し合い、自らの立ち位置を高めようとする“宮廷政治”が存在すると言われてきました。そうした本質的でもない内部抗争の犠牲になってきたのが日本教会だったように思うのです。

教祖の承認や評価を得ようとする指導者が、自らの実績(=日本教会の実績)を膨らませて報告し、それを前提に設定される途方もない“目標”を、そのまま「教祖の指示だ」として信徒に突きつけたり――。他国を任地とする韓国指導者が、自らの企画に教祖の許可を取り付け、それを錦の御旗に、「教祖の指示」だとして、別途、日本教会に協力(献金)を求める、といったケースも見られました

日本教会の献金問題に「教祖の責任」があったことは否めないでしょう。しかし、私はそれ以上に「指導部の政治的文化」こそ、この教団の根本問題であったと思えてなりません。そしてまた、そうした指導部の横行を許してしまっていた根本原因が「教祖の神格化」にあったと思うのです。

  

❹人間崇拝と“独立王国”

上述したように、統一運動とは、神の理想(One Family under God)を実現しようという運動であって、単に神を拝んで救いを得ようという教えでもなければ、まして「教祖」を崇める宗教などではありませんでした。

原理の説く「メシヤ」というのも(神ではなく)神の理想を実現する“人間”であって、端的に言うなら、神の子女として、また人類の父母として、人類の歩むべき模範、「先例」を示す存在に他なりません

「メシヤを“信奉”して救いを得よう」ではなく、「一人ひとりがメシヤにならって神の子女となり、神の愛が宿る家庭、世界をつくろう」というのが、統一運動の原理観であり信仰観でした。

確かに、文総裁を思慕する思いから、信徒たちがその言動を絶対視し、奉るような傾向は昔からあり、また「教祖崇拝」的な側面があったことも事実でしょう。

しかし、文総裁が教えたことは、「教祖を拝んで生きよ」などではなく、信徒一人ひとりが「神の子」となり「メシヤ」になれ、というものでした。

母は日本教会の草創期を築いた第一人者であり、古くから文総裁を慕ってきた立場ですが、「文総裁を崇めて天国に入ろう」とか、「文総裁を信奉する教団をつくろう」などという信仰や発想をもったことなど一度もなかったと言います。

現教団に見られる「韓総裁を信奉する絶対王政」的な思想や発想、清平を総本山とする「統一教会王国」のような教団の在り方は、統一運動のビジョンから完全に逸脱したものとしか言えません。

教団は今なお、「神のもとの一家族」といった普遍的なビジョンを標榜してはいますが、本音のところ、実際に意図するところは、「世界の前に韓総裁の権威を高めること」であって、その向かう先は「韓総裁のもとの独立王国」にあるとしか思えません。

信徒の方々が生活苦に耐え、家族を犠牲にし、苦労を背負いながら成し遂げようとしたことはそれだったのでしょうか? もし今なお、神の普遍的な理想と人類の恒久平和を希求し、公益性ある運動としての「統一運動」を信じているなら、今、教団が行っていることを冷静、且つ客観的に見つめ直してみていただきたいと思うのです。

聖書が記したモーセの「十戒」、神が人に与えた最初の契約の第一条は、「神以外のものを神とするべからず」というものでした。「人間崇拝」がもたらすもの、神以外の存在を絶対化し、そのもとに天下を統べようという在り方は、他を認めようとしない、極度の「排他性」を生み出すに違いありません。

「一神教」はこれまで、他の宗教や信仰に対して「非寛容」で「排他性」をもつものと指摘されてきました。しかし、私はその弊害が「唯一神」を信じること自体から来るものとは思いません。その唯一神を「自分の宗教だけの神」として“独占”しようとするところからもたらされる弊害だと思うのです。

原理の観点から見る時、「キリスト教の神」「イスラム教の神」等が存在する訳ではありません。また「統一教会の神」などというものが存在する訳ではないのです。もしこの世界に、本当に「神」が存在するのだとすれば、それは「全人類の親なる神」であり、宗派や教派を超えた存在であるに違いありません。

その共通の親なる神の理想を共に成そうとする時、宗教は共に手を携え、それぞれの先例を立てつつ、共通のビジョンを果たしていくことができる――、これが統一運動の観点に他なりません。一人の教祖を“神”のように崇める在り方は、他の信仰に対する「排他性」を生み出し、逆に平和世界実現を阻害するものにならざるを得ないでしょう

<補足>私は三男・顯進氏を支持する者ですが、それは顯進氏を“信奉”しているからでも、“神格化”しているからでもありません。私が顯進氏を支持する理由は、統一運動本来のビジョンを信じるからであって、その理想実現をブレなく追求し続けているその「先例」を、顯進氏の中に見るからです。

 

さいごに

統一教会は本来、統一運動を標榜し、「公益的運動」を志向するものでした。しかし、それを「独善的教団」へと変質させてしまった根本原因は、本来のビジョンや普遍的原理を失い、独自の信条と組織信仰、教組崇拝といった「歪んだ信仰」に陥ったことにあると、私はそう思います。

こうした指摘は、今なお教団に身を置く信徒の方々からすれば、身を切られるようなことであって、特に多くを投入し、犠牲にして来られた方であればあるほど、受け入れ難いことなのかもしれません。

しかし、内側から、現教団の問題の深刻さに対する“自覚”が芽生えない限り、韓総裁と現体制の進む方向性が、本来の統一運動と“逆行”していることに気付けない限り、信徒の犠牲は広がる一方だと思うのです。

つい先日も、教団が進める献金摂理のため、二世が親の借金を新たに肩代わりしたケースを伺いました。この在り方をいつまで続けるのでしょうか?

以前の記事で記したように、天のため、世界のためとして捧げた一人ひとりの誠意が無駄になるとは思いません。しかし、本来の信仰から見る時、統一運動の理想と逆行する無理な献金の集め方も、その使われ方も、そうした犠牲の上で進めようとしている運動の方向性も、全くもって、「神の摂理」と呼べるものではないはずです。

恐らく、立場上、表明できないだけで、同じことを思っている内部の公職者の方々、二世教育者たちも少なくないでしょう。そうした方々の声が形となり、現体制に対する抜本的な軌道修正と、信徒の解放や被害者家族の救済の道が開かれることを願ってやみません。

 

【中・後編】ポイント

・統一運動は本来、普遍的ビジョンと原則をもった「公益的運動」であり、統一教会と信徒の献身的活動は本来、そうした志によるものだった。

・教団のカルト性(=独善性)は、第一に、統一運動本来の「普遍的ビジョン」を失い、「組織の権益拡張」が主目的となっていくことから生じた。

・教団のカルト性(=閉鎖性)は、第二に、「独自の信仰論」(歪曲された信仰論)を先立て、「普遍的原則」から逸脱していく中で生じた。

・教団のカルト性(=排他性)は、第三に、教組のみを絶対化し、その他の権威を認めない「教祖の神格化」と「人間崇拝」の中で生じた。

・教団の問題から考える時、カルト的集団の規制は「行為」の背後にある「信仰」の問題と向き合わない限り、解決し得ないものと思える。

-統一教会の信仰問題, 統一教会の現状