メディア報道 統一教会の現状

統一教会・韓総裁の“反日”発言に見る課題~混迷する指導部、困惑する信徒

昨日3日、旧統一教会・韓鶴子(ハン・ハクジャ)総裁の発言が、数々のメディアに取り上げられました。「日本は“戦犯国家”で罪を犯した国。賠償をしなければならない」

<共同通信> 7/3 教団総裁「日本は賠償を」 政治家批判、反発あらわ 
https://news.yahoo.co.jp/articles/c37db25125876b9e1079b0786def3f3993d7569b

ごく一般的な国民感情からする時、こうした“横暴な発言”は容認し難いものであって、強い憤りや嫌悪感を覚えるに違いありません。

また、そうした感情は、これ程の“反日”と見られる団体と懇意にしてきたとされる「自民党」政権にも向かうでしょうし、こうした“教え”を是とする「教団信徒」たちにも向けられざるを得ないでしょう。

今なお、教組を一途に信じ込んでいる信徒の方には、今一度、立ち止まり、現教団の“異常さ”、問題の深刻さに気付いていただきたいと強く願いますが、一方で、外部の方々には、決して、全ての信徒たちがこうした“偏った思想”に染まり切っている訳ではない、ということを知っていただきたく思います。

このブログで書き続けてきたように、この教団は予てから、公益性と独善性、社会性と反社会性、愛国主義と反日主義といった、相異なる側面を併せ持っていました。いえ、“混在していた”といったほうが正確でしょう。

それは、この教団が、統一運動本来の「普遍的ビジョン」から外れていくことで抱えるようになった「内部矛盾」でもありました。

そのため、現状に矛盾を感じていないのは、「組織を盲目的に信じ、追従している人々」であって、「本来のビジョンや思想を信じている人々」にとっては、現教団の在り方や今回のような発言は“違和感”や“困惑”でしかないはずです。

表に現れる教団の問題を批判することは簡単ですが、より複雑な内部事情に触れてきた立場から、今回のことを通して垣間見える教団指導部の迷走と信徒の現状について、思うままに綴ってみようと思います。

 

日韓の歴史問題と「母の国」の使命 ー “理念”をなくした方針

日本の歴史的罪の清算—ということを最初に語ったのは、韓総裁以前に文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁でした。しかし、少なくとも、そこには、単に日本教会を教団全体にとっての都合のいい“経済部隊”にするなどといった陳腐で狭量な発想を越えた、大きな理念がありました。

「母の国」の意味するところは、本来、日本の繁栄は天から賜った祝福であって、日本は世界のために尽くすことで世界から慕われる「世界の母の国」にならなければならない、というものでした。教会初期、それこそ勝共連合が掲げていた理念も、そうした世界に誇れる日本の国づくりであって、“反日”とは程遠いものだったはずです。

よく引き合いに出される「アダム国家・エバ国家」という言葉も、端的に言うなら、日韓は「運命共同体」であって、両国の信頼と友好関係がアジアと世界平和の礎であることを指すものでした。

※そもそも統一運動の教え(原理)に見る男女関係とは「相互補完」であって、「支配と服従」(エバがアダムに貢ぐ・仕える)などというセオリーはどこにもない。

一方で、日本が世界から愛される国になろうとする時、避けて通れないものが「歴史問題」でしょう。

私自身、学生時代を韓国で過ごしたため、両国の間に立ちはだかる歴史問題の難しさは肌で感じてきました。学友たちとは、国籍を越えて親しくなれるものの、いざ歴史問題を介すると、そうは行きません。

私は一日本人として、極端な「自虐史観」には反対です。そもそも、各国が活路を見出すのに汲々としていた時代、列強の脅威に晒されながら、日本が国の防衛のためにも、韓国に進出して行ったことは、避けようのない状況だったように思います。まず自国の民の安全と未来を考えざるを得ないのが国の立場だと思うからです。

しかし一方で、35年にわたる日本の統治は、韓国の人々(一般大衆)が望んだものではありませんでした。無論、鉄道の敷設、学校の建立、各種のインフラ整備等、日本が朝鮮半島の発展に貢献してきたことも事実だと思いますが、それが、民族の誇りや尊厳に代わるものにはなり得ないでしょう。もし彼らが現状に満足していたなら、命を賭して独立抗争に立ち上がる人々などいなかったはずです。

無論、恨があるからといって、事あるごとに過去の約束を反故にし、歴史問題を政治に利用していいなどとは思いませんが、韓国の国民感情を考えれば、極めて繊細な配慮が必要であって、「賠償金を払ったから解決済だ」と割り切ることなどできないのではないでしょうか?

こうした観点から、私は、日本人が世界のため、また韓国のために誠意をもって尽くす—、そんな地道な歩みを通して、初めて過去の歴史的恨みが解消されていくのだ—という統一運動の発想そのものに問題があるとは思いません。

また、日本の若者たちの韓国留学や文化交流、日韓の間での国際結婚など、文総裁の指導のもとに行われてきた取り組みや信徒たちの努力は、日韓両国の親睦と平和につながる貴重な貢献だったと思うのです。

献金や寄付にしても、本当に日本の人々の真心を合わせ、韓国社会のために用いるなら、それも、歴史問題を解消していく貴い足がかりとなるに違いありません。

しかし、日本教会の献金の問題は別です。この在り方の問題は(別の記事でも述べたように)、献金の集め方(方法)からその頻度や規模(程度)、そして今は何よりも、その献金の使われ方(用途・目的)に深刻な問題があると言わざるを得ません。

かつて日韓家庭の或る二世がこう言っていました。「自分は日韓の壁が早く解消されてほしいと願っています。でも、日本の過去の罪を清算することと、日本人の献金で韓国に“教団”の豪華施設を立てることと、一体、何の関係があるんでしょうか?」

統一運動が統一運動であった時、即ち、組織の権益や利害を超え、国と世界の公益のために活動している時、方法や程度の問題はあれ、日本の信徒たちは「世界のために献金しているのだ」と胸を張って言えました。でも、今は違います。

「韓国への償いのために“教団”施設の建立に日本人の私財を捧げよ」などという話は、一般の韓国国民が聞いても腹を立てる話でしょう。“一教団”の懐を肥やすために、韓国国民の過去の痛みや歴史問題を引き合いに出していい訳がないからです。

純粋に、また必死に世界のために、と、献金を捧げようとする信徒の気持ちを軽んじたいとは思いません。ただ、日韓の間の痛ましい歴史問題を利用して献金を要請する—、そこには、何の理念も、正義も、宗教性も、信仰論もない!と思うのです。

 

日本教会(信徒)と韓国教会(信徒) ー “組織”がもたらす構造悪

以前、とある記者の方から尋ねられました。「教団内では、『韓国人が上、日本人が下』といった意識があるのでしょうか? また、韓国教会(の信徒)は日本教会(の信徒)を下に見ているんでしょうか?」と。

今回のような発言を耳にする時、多くは、「一体、教団内では、どんな歪な日韓関係が築かれているのか」と不審に思うことでしょう。今や教団を離れた身ではありますが、信徒に対する不適切な“誤解”に関しては解いておきたいと思います。

組織論抜きで言うなら、教団内では日韓の人的・文化的交流が多く、日韓で国際結婚をした家庭も多かったため、日本の信徒にとって、また二世たちにとって、韓国とは最も身近で近しい隣国でした。それは韓国の信徒たちにとっても同様です。

一般の韓国教会の信徒に「日本を卑下するような姿勢」など、ありませんでした。いえ、むしろ日本の信徒が世界のために苦労をしているということから、日本教会や日本の信徒への感謝や敬意を抱いているケースが大半です。

そもそも、「日本人は罪の償いゆえに韓国に献金を捧げなければならない」とか、それこそ、「日本は(アダムを唆して罪に導いた)エバの国であり、アダムの国・韓国を侵略した罪の贖いのために全てを捧げなければならない」などといった指導は、献金体制下における「日本教会」内で生まれた指導であって、また、日本からの献金を求める「韓国指導部」(世界本部や清平)から発信されていた内容に過ぎません。

日本の教会現場の中には、「日本人は過去の償いとして韓国人にとことん侍らなければならない」とか「韓国を主の国として仰ぎ、韓国の文化や方針に無条件従わなければならない」といった極端な指導も見られたましたが、これは韓国の一般信徒の感覚とはかけ離れた内容であって、こうした歪んだ指導が、日本教会の信徒や二世たちに「嫌韓感情」を抱かせてしまうことすらありました。

例えて言うなら、人と人として交われば親しい間柄になれる日韓両国が、国と国とで向き合うと歪んだ関係になってしまうのと同じように、教団内でも、日韓の信徒同士の関係には何の問題もありませんでしたが、組織と組織の関係となる時—即ち、韓国本部(指導部)と日本本部の関係を見た時、そこには極めて異常な関係、「従属と依存」と言わざるを得ない歪んだ構造(日本が韓国に従属/韓国が日本に依存)がありました。

他の記事でも記したように、こうした組織的歪みは、決して「本来の教えや信仰からもたらされたもの」ではなく、逆に「組織目的のために本来の教えや信仰が捻じ曲げられて生じた結果」だったのです。

 

無責任な指導部と取り残される信徒 ー 信徒の解放のために

日本教会に対する献金要請に、文総裁の指導責任があったことは否めません。“反日”と取られる発言があったことも、既に公開されている通りかと思います。

ただ、文総裁が日本を語る時、また、日本の信徒たちに対する時、信徒たちはそこに深い愛情や温かさを感じていました。それがなければ、誰もついて来なかったことでしょう。

俗っぽく言うなら、文総裁は日本が、そして日本人がとても「好き」だったように思うのです。日本に留学し、日本で学生期を過ごした経験をもち、癖のある日本語を駆使されながら、日本の信徒と交わっていました。

日本に強く献金を求めつつも、日本の信徒たちに多大な苦労を背負わせてしまっていることに責任を感じ、その献金の“重み”を深刻に捉えているように思えました。少なくとも、日本教会や日本信徒が「犠牲になっても当たり前」などという発想はなかったと感じています。

しかし、韓国指導部の在り方は違って見えました。日本からの莫大な献金—血と汗と涙の滲むような献金—があがって来ること、それをもって韓国をはじめ、世界の教団を運営し、拡張させ、投資もし、新たな“事業”に着手することも“当たり前”のようになっていた—、そんなふうに見えました。

今の韓総裁は、いつの間にか、そうした指導部の発想の上に乗っかってしまっているように思えてなりません。昔の韓総裁の姿は決してそうしたものではなかったはずです。

今回の発言について、私が非常に残念に思えたのは、それが反日的だとか、日本の政治家を軽んじる発言だったとか、そんなところではありません。

これまで、日本教会は無理に無理を重ね、このような事態にまで至りました。日本教会は“度を越えた方法”を行使し、社会的モラルに反するようなやり方を続けてきた訳であって、社会にバッシングされることも致し方ないことなのだと思います。

しかし、信徒としては、本当に純粋に、真剣にやってきたんだと思います。日本教会に向けられたバッシングは、日本教会だけのために生じたものではありませんでした。

韓国指導部が、本当に「指導部」であるなら、その責任を共に感じ、その負担をまず自ら担い、日本教会がそれこそ“最後の自主改革”、“再生”に向けた機会を掴み取れるよう、本気で向き合うべきなのではないのでしょうか?

日本教会が今置かれている現状を知っていて、どうして「さらなる献金」の要請ができるのでしょうか。これは韓総裁個人の感覚の問題なのでしょうか? それとも指導部が、日本の現状をまともに報告しようとしていないのでしょうか?

部外者となった立場で、私が言えることではありませんが、無理の中で生じた被害者や二世たちの救済よりも、日本の信徒の負担軽減よりも、日本教会の立て直しよりも、そんなに教団施設の建立の方が大切なのでしょうか? VIPを通した教団の宣伝の方が大切なのでしょうか? 韓国に現金を調達することの方が大切なのでしょうか?

日本社会の憤りは今、日本教会や日本の信徒に向けられていますが、私は日本教会の苦労の一旦を知る者の一人として、日本教会が、日本の信徒が、不憫に思えてなりません。。。

韓総裁の発言は、現指導部の意識の現れのように思えます。そして、こうした内部集会の情報が外部に漏れてしまう現状を見る時、内部の牧会者たちにおいても、現指導部の方針に対し、抵抗を覚え、義憤を感じ、声ならぬ声を挙げようとしているようにも思えました。

私がこのブログで訴えようとしてきたことは「信仰論」に過ぎませんが、一歩踏み込んだことを言うなら、日本教会は「現指導部」に追従する現状から脱却しない限り、改革は不可能であって、それが叶わないなら、せめて信徒たちを、本質的ではない、際限なき“摂理”から解放してあげてほしい、と、強く思います。

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