前編では、顯進氏が統一運動、並びに二世教育に対してどのようなビジョンを掲げ、これを変革して行ったかについて見てきました。
後編では、同氏が青年圏の運動と共に、日本の献金体制そのものを改革しようとしていた事実に触れながら、当時の改革で何が変わり、何が変わらない課題として残されてしまったかについて見ていきたいと思います。
CARP・青年運動の改革
~親泣かせ原理運動から周囲を感化する文化運動へ
顯進氏が二世教育と共に、大学生・青年運動の変革に着手したのは、2000年3月、W-CARP会長に就任してからでした。
日本でCARP(全大原研:全国大学生原理研究会)と言えば、「親泣かせの原理運動」として知られます。
親たちからすれば、苦労して有名大学に送った子どもたちが、ある日突然“原理運動”なるものにハマり、学業を放棄して教会活動に明け暮れ、仕送りまで献金してしまう訳ですから、「親泣かせ」という声が挙がるのも無理もないでしょう。
しかし、実はこれと同じ状況が“教会内”でも見られました。
CAPRは2000代初頭まで、学期中は「伝道活動」、休暇中は「万物復帰」(経済活動)で明け暮れていたため、「子どもをCARPに送ると、卒業や就職に支障が生じて困る!」といった悲鳴が“二世の親たち”から上がっていたのです。
CARP経験者の親ほど二世をCARPに送ろうとしない、といった現象も見られました。「自分は良くとも、子どもたちには違う道を…」というのが親の心境だったのかもしれません。
また、二世は二世で、当時のCARPの画一的な組織文化に反発していたり、一方のCARPからは、教会に対してシニカルな二世たちがCARPに来ることは、初めて原理に触れて理想に燃える、周囲の若い一世たちには“悪影響”でしかない―といった苦情も挙がっていました。
「二世は信仰が弱くて使えない」というCARPと、「CARPに二世は任せられない」という二世局との間に、大きな溝があったのです。
実際、「二世をCARPへ」という文顯進会長の大号令に、最後まで“抵抗”していたのが日本の二世局でした。
それはある意味、二世たちの気持ちや事情を思うが故でもありましたが、そんな私たちがその後一変して、CARPへの積極的な橋渡しをするようになったのは、二世に対する顯進氏の深い愛情と信頼を実感したからでした。
詳細は割愛しますが、顯進氏は多感な少年期を、文総裁の息子として、言わば“二世と酷似した境遇”を越えてきた立場です。二世の痛みや事情が分からないはずもありません。
しかし、だからこそ、二世たちを人生の“被害者”でなく“勝利者”にするには、その逆境を越え得るだけの力を培わなければならないし、彼らにはその力を勝ち取れるだけの可能性がある―。「その可能性を信じよ!」というのが、顯進氏の熱い思いであり、信念でした。
その信念が、私たち二世教育者の心を動かし、また二世たちを動かしたのです。
同時に、顯進氏はCARPがその間、伝道や万物復帰といった信仰訓練(体験学習)を続けてきたことを評価しつつも、CARPはCARP自体のため(=内部伝道や組織拡大)に存在するものではないとして抜本的変革を訴え、あらゆる教育と活動の観点を塗り替えていきました。
曰く、CARPの存在目的とは、為に生きる実践を通した「人材の育成」であり、公益的活動を通した「学内文化の育成」に他なりません。
顯進氏は、教会であれ、CARPであれ、私たちが発展していないのは「為に生きていないからだ」とし、翌年2001年には、新たな奉仕団体(NPO法人)を設立。若者たちを「為に生きる実践」へと駆り立てていきました。
同時に、伝道にせよ、万物復帰にせよ、あらゆる活動の観点を「為に生きる実践」と置き換え、その第一の目的を自己の内的成長(人格育成)に据えました。自らの内的変化なくして、人を感化することなどできないからです。
観点が変われば、文化も、結果も変わります。為に生きる実践を通して、周囲を感化し得る人材を育み、周囲を感化し得る文化をつくる―、それがCARPの新たなミッションとなったのです。
2002年には、CARP・二世局協同で、二世青年用の実践プログラム(STFプログラム)が新設。1~2年間のプログラムを終えた修了式で、二世たちが語る心情的な証と、内的成長を遂げた彼らの姿に、熱い涙を流す親たちの姿がありました。
それは、別の意味での「親泣かせ」運動だったのかもしれません。
日本の献金体制の是正
~腐敗したリーダーシップと組織体制の打破
顯進氏がビジョンと文化を正しく立てる上で、何よりも重視したのは「リーダーシップ」の変革でした。なぜなら、指導者のもつ意識と文化が全体の意識と文化を決定づけるからです。
上述のSTFプログラムをはじめ、二世教育においても、最初に打ち出された教育ラインは「リーダーシップ教育」でした。
それが一部では、「顯進氏は優秀な人材、リーダー的存在にしか関心をもたない」といった誤解を招きますが、顯進氏の語るリーダーとは常に、「権限をもつ者」ではなく「責任をもつ者」であり、「君臨する者」ではなく「範を示す者」(=先例)、「周囲に侍られる者」ではなく「周囲のために生きる者」でした。
※顯進氏は従来の誤った「アベル・カイン」の観点を是正し、神がアベルを立てたのはカインを愛するためであり、誰よりも神を思い、カインを愛する者がアベルとなるのであって、カインへの愛情と責任を失った時点でアベルではなくなると強調した。
顯進氏はこれを「真のアベル」と表現しながら指導していきますが、同氏が当時、何よりも深刻に捉えていたのは「指導部」のリーダーシップであり、それがもたらす組織体制でした。その最たるものが「日本の献金体制」に他なりません。
遡ること98年、最初に来日した際、顯進氏は既に日本の献金体制の“異常さ”に気付き、この在り方を巡って、文総裁と口論にまで至っています。
顯進氏は当時、文総裁の意向を受け止め、まずは次世代の教育に集中していきますが、2001年初頭、文総裁が48歳以下の全指導者を顯進氏の指導下に置くとしたことで、いよいよこの改善に踏み切るのです。
ちなみに、この時、顯進氏に日本の献金体制の深刻な内情を吐露し、秘密裡に現状を訴えたのは、日本教会内の“日本人責任者”でした。
90年後半、最も悪質だったされる日本の献金体制というのは、韓国人の総会長(=内的には会長の上位)のもと、全国各地区に同じく韓国人の地区長(当時は“リージョン副会長”と呼称)が立ち、献金を取り仕切っている状況でした。
様々な教会現場で、恐喝じみた集金方法が取られたり、目標達成できない担当者が罰則を与えられたり、責任者の公金横領を指摘した経理担当が手を挙げられたり、職を解かれるといった話までありました。
しかし、そうした体制が、「献金=文総裁の意向」という名目のもとに正当化され、また総会長が文総裁の信任を得ていたことから、誰もその“牙城”に手を出せなかったと言います。
※顯進氏は、指導者たちが文総裁を神格化し、その権威を用いて自らの組織内の立場を高めようとする在り方に強い問題意識をもっていた。
報告を受けた顯進氏は、この問題から目を背けようとはしませんでした。同年3月、問題となる責任者たちを含む、世界の指導者たちを集めて21日間の指導者研修を実施。その裏で、日本教会内の現場監査が進められることとなりました。
顯進氏はこの研修を、単に特定の個人を糾弾するような場にしようとしたのではありません。全指導者が「真のアベル」として生まれ変わるよう、本来のリーダーシップとその公的責任の重大さとを、凄まじい波動で訴えたのです。
「あなた方がこの運動に入信した理由は何だったか!? 神の御旨に生きようとこの道に来たのではなかったか!? その最初の動機はどこに行ったのか!?」 それは、彼ら自身を初心に立ち返らせようとするものでもありました。
そうして、この研修後、監査結果に基づき、大々的な人事が行われたことで、最も深刻だった時代の献金体制が改められたのです。
しかし―、これはまた、顯進氏と指導層との本格的な衝突の発端ともなりました。
顯進氏はこの人事直後から、それが「現場を無視した独断的措置だった」として糾弾され、歪曲された報告を受けた文総裁から厳しい叱責を受けることとなるのです。
顯進氏は文総裁が信頼する総会長を同じく信頼し、彼の管理下の問題を(文総裁に報告し責任を追及する代わりに)彼自身の了解と責任下において正そうとしました。
しかし、こうした思いとは裏腹に、総会長が自分の元の指導者たちへの人事措置や、それに伴う献金実績の責任を顯進氏に転嫁したことで、また同氏に内部問題をリークした日本人指導者が口をつぐむことで、悪しき体制を是正しようとした顯進氏の行動は「独断的措置」とされ、それ以後、同氏は教会組織の人事に一切関与できない立場とされてしまうのです。
さいごに ~残された課題と変わらない体制
顯進氏はその後も変わらず二世・青年圏の変革を主導し、さらに宗派・教派を超えた平和運動へと活動舞台を広げながら、超宗教運動としての本来の統一運動を志向しつつ、既成世代とは発想を異にする次世代のリーダーを育成していきました。
しかし、一方の指導部はそうした同氏の改革に対して何かと批判し、文総裁にも誤った報告を入れながら、これを牽制し続けるのです。(詳細は次回)
結果、2000年代は、顯進氏が主導する改革路線(改革派)と、従来の教会体制を保持しようとする勢力(体制派)とが混在する状態が続きました。
その後の流れは、前回記した通りです。指導部は顯進氏を締め出し、教団強化へと舵を切ることで、同氏が主導したものとは相反する、「教組・教団中心」の体制が築かれるに至るのです。
結局のところ、当時の改革運動によって何が変わり、何が変わらなかったのか―。
結果から言うなら、顯進氏の変革は次世代のリーダーの“文化”を変えましたが、既存の“体制”を変えるには至りませんでした。それが課題となって残り続けてきたのです。
いえ、“体制”(韓国を中心とする全体の体制)だけを見るなら、今は当時以上に「教祖中心・教会組織中心」になっていると言えるでしょう。これが、今の教団の複雑さであるように思うのです。
顯進氏が放逐されて以降も、若手リーダーの意識や文化は、「改革派」のそれを志向し続けていました。しかし、組織としては「体制派」の在り方に身を置かなければならなかったのです。
言わば「心は改革派、体は体制派」といった状況でしょう。過去、私自身がそうでした。
前編で示した図(下記にも添付)で説明するなら、現職の指導者の中にも、今尚、当時の顯進氏の観点に同意するリーダーは少なくないはずです。しかし、自らが信奉し、支持しているトップの発想—韓総裁や指導部の発想と指導方針はそれとは明白に異なるのです!
現在の日本教会を見る時、当時の改革派の面々が要職に就くようになりました。そうした意味では、過去の教会と今の教会の文化は同じではないでしょう。日本教会内には、体制の改革・改善を志す人々もいるはずです。
しかし、統一運動の方向性と、現指導部の方向性とを“同時に”支持しようとすることは、完全な“自己矛盾”なのではないでしょうか?
率直な実感として、統一教会のそもそもの問題とは、教えと実体、言っている事とやっている事、掲げている理想と創り上げている組織が“違う”という点にありました。
家庭理想を語りながら家庭に負荷を与え続け、超宗教を語りながら教組への絶対服従を教え、世界平和や社会貢献を説きながら、教団自体の施設拡充にばかり多大な関心を寄せ、莫大な資金を注ぎ込む―。
本来の統一運動に立ち返るためには、こうした現体制の発想や方向性と袂を分かつか、そうでないなら、信徒を“組織”から解放し、一人一人が統一運動のビジョンを志向できるようにすることが求められるのではないでしょうか?
※私は現在、「三男派」と呼ばれる立場にありますが、大切なことは、“どこ”に所属するかよりも、何を信じ、どんな理想を追いかけ、どういった文化を志向するか、だと思っています。統一運動を標榜するなら、少なくとも信徒を、統一運動のビジョンと合致しない組織目的のもとに縛り付けていてはならないと思うのです。
【前後編】ポイント
・顯進氏は本来のビジョンを中心に統一運動を再定義し、指示命令に従う文化から、個々がビジョンのオーナとなって生きる文化への変革をもたらした。
・顯進氏は二世教育の観点を明確にし、教会に従う二世でも、環境から守られる二世でもない、環境を主導する二世の育成を新たな指針として掲げた。
・顯進氏は二世の信仰訓練を強く推奨すると共に、CARPの正使命を内部伝道推進ではなく、為に生きる人格と文化の育成とし、組織文化を一変させた。
・顯進氏は日本の献金体制とリーダーシップの問題を深刻に捉え、これを是正するに至るが、指導部の反対により、旧態依然たる体制はその後も続いた。
・当時の改革は次世代の“文化”に変革をもたらしたが、“体制”は変わらず「教団化」が進んだ。統一運動を志向するなら、現体制との決別が求められる。