メディア報道 統一教会の信仰問題

統一教会への解散命令請求❷ ~信徒の自由と解放を願って [前編]

日本政府は昨日、東京地裁に旧統一教会(以下、教団)への解散請求を行いました。

信徒の方々にとって、統一運動に半生、或いは生涯を捧げてきて人々にとって、これがどれほど悲痛な現実であるのか、私にも痛いほど分かります。

教団は徹底抗戦を決め込み、国を相手取って最後まで法廷闘争を続けるに違いありません。それが「組織」としての対応なのでしょう。

しかし、「私たちは正しかった」「これは国による宗教迫害に過ぎない」と主張し続けることは、社会からの信頼を回復し得ないばかりか、信徒の方々自身にも大きな混乱をきたすに違いありません。

「正しい事をしているのにどうして?」「天はなぜこんな仕打ちを与えるのか」…、そんな疑問も生じてくることでしょう。

しかし、嘆願書を記したとされる5万名もの信徒の方々自身、その多くは「解散請求はあんまりだ!」と思いつつも、「教団に何の問題もなかった」とは思っていないはずです。

今の報道には大きな偏りがあり、負の側面ばかりが取り上げられてきたことは(私自身のコメントの切り取られ方も含め…)遺憾に思ってきました。統一運動が世界にもたらしてきた功績が度外視されている現状は、極めて残念でなりません。

しかし、この問題が起こってきたのは、どこまでも、私たち自身の課題であり、教団内に巣食ってきた誤った信仰観と組織構造の問題にありました。それが多大な犠牲と被害をもたらしてきたのではないでしょうか?

そうした課題と向き合わず、認めようとしないまま、自らの主張を続けても、日本社会との乖離は深まっていくばかりに思えます。

組織としてはそうするしかないとしても、信徒の方々には、冷静に現状を見つめていただきたいと思うのです。

今、日本社会から“ダメ出し”を突き付けられているのは、信徒の方々が心から信じてきた統一運動の理想でもなければ、統一運動本来の信仰でもありません。問題視されているのは、現教団内の(韓国を中心とした)誤った指導方針であり、組織構造であり、それを良しとしてしまっている“非本来的”な信仰観です。

その課題を受け止め、それらと決別することこそ、信徒の方々の真の自由と解放につながるのではないでしょうか? ここでは今一度、払拭したい信仰観の問題について、簡潔に取り上げてみたいと思います。

 

献金中心の信仰観からの脱却: 本来の教えに立ち返る

私たちの教会では、長らく「献金」が信仰生活の中心になってきました。若い二世たちがそう感じていないのは、私たちが二世教育の現場にそうした文化を持ち込まなかったからでしょう。

無論、「献金」そのものは、どの宗教でも行われている貴い宗教行為に他なりません。が、それはどこまでも個々の感謝を表す自発的行為であって、上から目標額が与えられ、その達成を求められて行うべきものではないでしょう。

また、「献金によって救われる」といった発想そのものが、私たちの本来の教え(=統一原理)には“ない”ものでした。それは、80年代に作られた経済中心の組織体制、実績至上主義がもたらした古き悪しき体質に端を発するものです。

「世界のために私財を捧げよう」としてきた信徒の公的動機、献身的な思いを否定したいなどとは思いません。ただ、献金が信仰生活の中心となり、献金によって人が評価され、献金しなければ先祖や子孫が救われない、といった“非本来的な信仰”には深刻な問題があり、それが(家庭の犠牲や破綻さえもいとわない)教団の“尋常でない献金体制”を後押ししてきてしまったと思うのです。

かつての初期教会、70年代の統一運動は、原理の教え、“思想”によって「若者」が伝道されていたと言います。

それが80年代、経済中心体制となりながら、教団は(経済が見込める対象として)「青年伝道」から「婦人伝道」へとターゲットを変え、伝道の入口も「教え」(思想)ではなく、手相や観想、家系図による「開運」に切り替わっていきました。それが「霊感商法」につながったと言われています。

言わば、「本来の教え」でないものが、「教会の教え」の主流を成すようになるのです。二世たちが「二世教育の中で教わることと実際の教会の在り方が違う」として困惑してしまう理由もここにありました。

無論、80年代以降、経済活動が日本教会の使命として強調されてきたのも事実でした。しかし、統一原理が説く「天国」とは、どこまでも、神の愛に根差した個人と家庭の成長・成熟(=人格完成・家庭完成)によってもたらされるものであって、原理は「献金」によって人が救われるとも、天国が作られるとも教えていないのです。

もう“組織的”に背負わされた重荷から解放されるべきではないでしょうか? もう本質的な教えに立ち返り、建設的な信仰観で歩んで行ってもいいんじゃないでしょうか? 

解散請求によって“解体”されるべきものは「行き過ぎた献金文化」であり、それを支えてきた「非本来的な信仰観」であるに違いありません。

真心からの献金が心の浄化(人格成熟)につながることも否定はしませんし、そうした真心が無駄だったのだ、などとは思いません。が、少なくとも、献金が信仰生活の目的ではない、というのが原理の教えです。

従来の信仰観が是正されない限り、「宗教法人格」の有無にかかわらず、家族内の対話や和解は難しく、社会が抱く不信感も払拭できないだろうと思うのです。

参照】献金活動の課題(09年以降)

※以下、週明けに続き[後編]を記そうと思います。

組織中心の信仰観からの脱却: 本来のビジョンに立ち返る

教組中心の信仰観からの脱却: 神への信仰に立ち返る

-メディア報道, 統一教会の信仰問題