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統一教会の現状とこれから ~安倍元首相銃撃事件から一年 [まとめ記事]

昨年の今日、安倍元首相銃撃という、日本中を震撼させる事件が起こりました。

他に類を見ない、こうした非情なテロ事件を受け、社会の批判が向かった先は、これを引き起こした「犯人」ではなく、彼をそこまでの窮地に追いやった「宗教団体」でした。

槍玉に挙げられた団体、旧・統一教会は、今に至るまで、この一連の騒動が「反対派と左翼メディアの扇動によるもの」という主張を変えておらず、信徒にもそう説明しているといいます。

しかし、人々の多くが、「テロ行為」に訴えた青年の蛮行を糾弾しつつも、それ以上に「教団」の問題に矛先を向けてきたのは、この事件を切っ掛けに、それまで看過されてきた教団内の“深刻な問題”が浮き彫りとなったからでした。

高額献金、二世問題、政界との癒着…といった教団の問題は、メディアや世論によって「作り上げられた問題」ではなく、「元々あった問題」であり、「長らく見過ごされてきた課題」でした。

事件から1年目、節目を迎える上で、改めて、これまで取り上げられてきた課題—このブログで言及してきた内容—を振り返り、整理しながら、今一度、統一教会の現状と今後について考えてみたいと思います。

①高額献金の問題 ー 家庭の破綻と救済法案 

何が問題だったのか? ~霊感商法と高額献金

山上容疑者の母親が不動産まで売却し、教団に総額1億円にも上る献金をしていたこと―それにより破産していたこと―が報じられたことで、世間の耳目は一斉に教団の「献金問題」に集まりました。

それがまた、教団が過去に行った「霊感商法」(詐欺的手法をも伴う法外な物販行為)と相まって、「統一教会=反社会的団体」であるとする論調が高まって行きました。

これを受け、教団はすかさず記者会見を実施。「霊感商法」は過去の問題(それも教団ではなく信者の活動)であって、2009年の「コンプライアンス宣言」(=法令順守の声明)以降、一件の問題もなく、献金は皆、信徒の「自主的な行為」でしかないと主張しますが、これが逆に、元信者からの反発を招く結果となりました。

過去、「霊感商法」とされる物販活動を教団が主導していたことは周知のことであり、2009年以降も、信徒への献金要請が続いていたのは事実だからです。

「先祖解怨」(=高額献金により先祖が救われる)というのも、形を変えた(=外部でなく内部に向かう)「霊感商法」に過ぎない、とする指摘も挙がりました。

献金行為そのものは尊い宗教行為であって、他団体でも高額献金が行われることはあるでしょう。しかし、教団における献金の在り方は、その集金方法や程度において明らかに度を越えたものであり、それが信徒の家庭に大きな歪をもたらしていたことは、私自身が見てきた現実であり、最初の投稿文で記した内容でもありました。

最初にメディアに投稿した文書

信徒はなぜ献金するのか? ~マインドコントロール説

一体、なぜ信徒はそこまで無理を強いて献金をするのか―。それが当初、記者の方々からよく受けた質問です。

巷では、「不安や恐怖」を煽る形での献金がイメージされていましたが、実際、そこまでの恫喝、詐欺的手法が用いられていたのは「80年代」のことであって、教団の経済活動は、年代によって大きく異なります。

ざっくり言うなら、70年代はごく一般的な営業活動、80年代がいわゆる「霊感商法」(=霊的現象や効用を訴え、外部の顧客に販売)。90年代になると「摂理献金」(=信仰的使命感から信徒に献金を要請)へと変わり、2000年以降、「先祖解怨」(=家系の解怨や開運等、よりご利益的な献金)が主流となって行きました。

【参照】80年代 https://sakurai.blog/archives/120
【参照】90年代 https://sakurai.blog/archives/157
【参照】00年代 https://sakurai.blog/archives/192
【参照】10年代 https://sakurai.blog/archives/236

要するに、現教団において信徒が献金する動機は、不安や恐怖よりも、使命感やご利益といった「信仰心」によるものが大半と言えます。それが、教団内の献金活動の”規制”を困難にする一因ともなりました。なぜなら、献金が個々の「信仰」によるものである以上、それを規制するには「信仰問題」にメスを入れる他ないからです。

そのため、献金が「信者の信仰」によるものではなく、「教団の洗脳」によるものだ、とする説(マインドコントロール理論)も謳われましたが、その言説自体が個々の信仰を全否定するものであって、「信教の自由」と抵触するものだとされました。

【参照】マインドコントロール論の是非 https://sakurai.blog/archives/574

高額献金を規制するには? ~反セクト法と救済法案

教団の献金問題を切っ掛けに、8月以降、「宗教団体による反社会的行為(過度な献金)をどう規制するか」の議論が始まります。そこで、まず引き合いに出されたのが、フランスの「反セクト法」でした。

これが、宗教団体の「信仰」(どんな信仰をもつか)ではなく、「行動」(違法的行為はないか)に目を向けるものとして注目され、最初の「被害者救済法案」のベースとなったといいます。

ただ、結論から言うなら、どんなに法外な献金であれ、信者自身が「信仰によるもの」(自主的に行ったもの)と自覚してしまっている以上、それをもって「違法」とみなすのは困難にならざるを得ません。

結果、12月制定の救済法で規制し得た項目は、明白に「威迫・困惑」を伴う場合であり、借金や資産(条件付き)処分によるものである場合に限られ、献金の受領時にも(金額規制等ではなく)「配慮義務」を果たすことが義務付けられるのみ、となりました。

また、信者本人でない「家族」が返金要請できる範囲も大幅に制限(=被扶養者のみ)されたことで、新法は「献金被害の“予防”はできても“救済”はされない」「高額献金を続けるのに、いくらでも“抜け道”はある」といった声も挙がりました。

【参照】反セクト法の限界 https://sakurai.blog/archives/607

 BS朝日「旧統一教会“被害者救済法”成立、問われる今後」(2022.12.11)より

献金問題を解決するために ~“誤った信仰”からの脱却

私は「信教の自由」ゆえに“信仰”については踏み込めない―ではなく、「信教の自由」があるからこそ、逆に”信仰”の歪みの問題が正されない限り、「規制」もできず、根本的解決もし得ないと思っています。

現教団の献金問題について言うなら、一つには(内的には)「献金をしないと先祖が救われない」とか「日本の罪を贖うには献金が必要だ」とか、「家族の問題は献金をもって解決される」といった“偏った信仰観”(=これは断じて統一運動本来の信仰観ではない!!)が正されるべきだと思います。

そして、もう一つには(外的には)教組や教団の権勢拡大ばかりを追求する現指導部に追従する組織構造(=それを信仰だと見なす信仰形態)が改められることです。

今の状況に違和感を覚えている信徒の方々も多いはずです。教団が今日の事態に至っているのは、「外部」ではなく「内部」に問題があるからに他なりません。むしろ、信徒全体が現教団の信仰問題(及びその信仰に支えられている組織構造の課題)を自覚して初めて、“変化”の可能性が生じるのではないでしょうか?

【参照】カルト化を招いた信仰 https://sakurai.blog/archives/678

 

②宗教二世の問題 ー 信教の自由と宗教虐待

何が問題だったのか? ~親による信仰強要

昨年の事件後、山上容疑者自身の境遇—親の信仰活動によって人生を狂わされた二世の苦悩—が知られたことで、それまで水面下でくすぶっていた「宗教二世」の問題が一気に吹き出すこととなりました。

小川さゆりさん(仮名)、高橋みゆきさん(仮名)といった統一教会二世をはじめ、他の宗教二世たちが次々と声を挙げ、12月には「被害者救済法案」可決と時期を同じくして、「宗教二世ネットワーク」が立ち上げられました。

二世たちが感じてきた苦悩の中には、献金等による生活苦ばかりでなく、親の信仰(宗教的価値観)の押し付けをはじめ、行動や交友関係の規制、恋愛や結婚の禁止といったものが挙げられます。

【参照】二世と恋愛 https://sakurai.blog/archives/406
【参照】二世と結婚 https://sakurai.blog/archives/425

私自身、教団内で、多くの二世たちの相談に応じてきましたが、彼らの苦悩を一言で言うなら、それは、彼らには「自分の人生がなかった」というものであり、言わば、「信教の自由がなかった」というものです。

「信教の自由」には、“信じない自由”も含まれるはずですが、信仰熱心な親ほど、子どもが信仰の道から外れることを容認できず、そこに深い葛藤が生まれるのです。

【参照】二世の苦悩 https://sakurai.blog/archives/313

教育と強要はどう違うか? ~信仰継承と宗教虐待

昨年12月、宗教二世の声を受け、厚労省が「宗教・信仰を理由とする虐待」(宗教虐待)を類型化し、その対応指針(ガイドライン)を発表。これまで「宗教問題には不介入」という理由から放置されてきた、家庭内の二世問題に着手し得る足掛かりとなりました。

これは、信仰ゆえに生じ得る問題を、従来の「児童虐待」の類型に当てはめたもので、ここには体罰等の「身体的虐待」のみならず、親の信仰強要等による「心理的虐待」等も含まれていました。

これを実質的に履行するには「法令化」が必要だとする声が挙がる一方で、子に信仰的価値観を教え得る親の権利(=信教の自由に該当)を著しく妨げるものにもなるとして、強く危惧する声もありました。

二世教育に携わってきた者として、はっきり言えることは、教育と強要は違うということです。教育とは「子の自立を促すもの」であり、強要とは、「子を自分の思い通りにしようとするもの」です。

無論、幼少期の教育に「しつけ」が必要であるように、信仰教育にも幼少期の習慣づけのようなものが求められることもありますが、「動機と目的」をどこに置くかによって、親の対応も二世の感じ方も大きく変わると思うのです。

【参照】教育と虐待の違い https://sakurai.blog/archives/471

二世の信教の自由のために ~親の役割と子の自立

私も、我が子に信仰の相続を願う親の一人ですが、子どもは決して、親の“所有物”ではなければ、親が本人の人生を代わりに生きれる訳でもありません。

親にできることは、ただ自らの信仰的価値観を、身をもって示すことであり、願わくば、子がその生き様から「神」や「真理」「信仰」といったことを見出してくれることを願うことであって、子の人生はあくまで「本人自身」が自ら選び取るものに他なりません。

親としては焦る思いもありますが、それでも、ただ愛情を投入し、範を示し、信じて待つ―、或いは、天の導きを祈る他ないと思うのです。

【参照】親の責任と役割 https://sakurai.blog/archives/480

また、二世には“信じない自由”もあれば、“信じる自由”もあって、信仰を選び取った二世の「信教の自由」も尊重されるべきでしょう。「宗教二世」という言葉が、二世を「被害者」としてひと括りにしまっていることに対し、抵抗を覚えている二世もいます。彼らにとって、信仰は誇りでもあるのです。

【参照】二世に見る2タイプ https://sakurai.blog/archives/377

ただし、私は教団に残る二世たちにも、同じことを伝えたく思います。教団に“依存”した信仰ではなく、“自立”した信仰をもってください。

信仰とは「神」に向かうものであって、特定の組織に縛られるものではありません。組織の都合や事情を越え、普遍的な原則やモラル(=私たちで言えば、創造原理的価値観)を基準に、正しいことを正しいと言い、間違ったものを間違っていると言える―、それが本当の信仰であると思うのです。

【参照】組織信仰の弊害 https://sakurai.blog/archives/583

③宗教と政治の問題 ー 政教分離と宗教弾圧

何が問題だったのか? ~反社会性と政治的癒着

事件以降、教団の問題が明るみに出ると同時に、教団と関連のある政治家—正確には教団の関連団体である「勝共連合」と接点をもったとされる政治家—に批判が集まり、特にその大多数を占める「自民党」に批判の矢が集中することとなりました。

同時に、教団(勝共連合)による選挙活動についても、「政治家を取り込むのが狙いだった」と報じられ、8月末には、岸田首相が教団との断絶を表明。これに続き、富山市、大阪市等でも関係断絶の表明がなされたことで、教団側もまた、「信者の政治参加は国民の権利であって、それを妨げることは信教の自由・政教分離の原則に反する」と反駁。「これは“魔女狩り”であり、宗教弾圧だ」という声も挙がりました。

実際、政教分離の原則とは、「国(政府)が特定の宗教に肩入れすること(=他の宗教を排斥することを)を禁じるもの」であって、「宗教が政治に関わること」を禁じるものではありません。

問題となったのは、「教団が特定の政党(自民党)を応援したこと」でも、その逆、「自民党が教団の選挙支援を受けたこと」でもなく、政治の側がその間「教団の”反社会的”とされる問題を放置していたこと」であり、問題を取り締まるどころか(関連団体に祝辞を送る等をして)「教団の活動にお墨付けを与えていたこと」でした。

「教団の問題を知らなかった」なら、応援団体への精査を怠っていたことを反省すべきであって、仮に「教団の問題を知っていて(選挙応援と引き換えに)これを容認していた」となれば、それこそ“癒着”以外の何物でもない―。これが当時、問題とされた焦点でした。

【参照】教団と政治 https://sakurai.blog/archives/286

勝共と教団は表裏一体か? ~保守の勝共・反日の教団

「教団と勝共(UPF,平和連合等)の関係」というのも、記者の方々からよく質問された内容でした。結論から言うなら、教団と勝共とは、決して「表裏一体の関係」などではありませんでした。

本来、「統一運動」(=神のもとの平和世界実現)という大きな傘の下にあって、勝共と教会(※敢えて教団でなく教会と表現します)は各々、政治活動と宗教活動の役割を持っていましたが、当初は冷戦下にあって、むしろ勝共こそ統一運動の主体で、これを“支える”側が教会でした。

即ち「勝共が教会活動(布教)の隠れ蓑」だった訳ではなく、逆に「教会が勝共活動を推進するための土台」だった訳です。

ちなみに、勝共運動(統一運動)の立場は元来、「反日」ではなく「愛国」でした。世界から愛され、尊敬される国作りを目指していたからです。それが「母の国」の本来の意味でもありました。

万国から慕われる日本をつくる上で、「過去の歴史の清算も大切」という精神的教えは元からあったものの、極端な自虐史観、反日的歴史観が強調され、それが「献金する名目」とされて行ったのは、「献金摂理」(信徒による献金)が最も熾烈化していった90年代であり、先祖解怨(日本の先祖の罪を含む)が主流になっていく2000年代の指導(=清平)であったと認識しています。

こうして勝共と教会との“溝”は広がり、2010年代以降、教会は統一運動が志向していた「超宗教的ビジョン」さえ見失い、教組や教会組織の権益拡大ばかりを追求する、新たな“教団”へと変質していきました。

勝共連合や女性連合(女連)等、対外活動を進める部署から見る時、自分たちが外に向かって訴え、保守系の政治家たちと志を一つにして取り組んでいる「国家再建」「家庭再建」とは“真逆”の方向へと突き進む教団の在り方は到底、賛同し兼ねるものであって、実際、不満を漏らしてもいました。

したがって、外部から見れば、「反日」の団体が「愛国・保守」の皮を被って政治家に取り入ろうとしていたように見えて当然ですが、それは実際には、勝共と教団の間に存在していた“矛盾”だったのです。

【参照】教団と政治 https://sakurai.blog/archives/286

教団との関係断絶は妥当か? ~信教の自由と宗教弾圧

無論、「勝共と教団は表裏一体ではない」(=むしろ思想は相反する)とは言え、教組の意向は無視できず、教団からの人的、物的支援あっての勝共であったことは否めない事実でしょう。

また、勝共がいくら教団とは“別運営”であるとし、愛国・保守を信条としていると言っても、メディア各社から指摘されている通り、勝共と議員とのパイプ(勝共に寄せられる政治家の賛辞)は全て、教団のプロパガンダに利用されていたのが実態でした。

多くの一般信徒は、安倍元首相がどんな思想・信条をもっているかではなく、自分たちの教団や教祖に賛辞を送ったという一点を価値視していた訳で、それは、教団指導部(韓国トップ)の観点も同様だったと思います。

そのため、政治家がたとえ「自分が賛辞を送ったのは教団でなく関連団体だったのだ」と主張しても、実際、それは「教団の活動にお墨付きを与えた」のも同然であったことを、よくよく自覚していただくべきでしょう。

無論、教団と勝共の矛盾した構造を見る時、私個人としては、政治家が“勝共”の言動を信じ、“勝共”を通して(教団の)選挙応援を受けてきたことをもって、十把一絡げに「国民を裏切った!」として吊るし上げるのは“行き過ぎ”だと見てきました。

教団の問題を“分かって”(或いは、多方面から指摘を受けていたにもかかわらず)その問題を看過してきた政治家は別ですが、勝共や女連との接点をもっただけでは「教団の問題の深刻さ」は気付けないと思うからです。

ただ、「過去」はともかく「今後」、教団の問題が解決されるまで、「教団との関係を断つ」というのは、国として当然の話であって、これを「宗教弾圧」だというのは論点のすり替えとしか思えません。信徒の中には、「政治家に裏切られた」といった発想もあるようですが、仮に社会的問題があることを知って尚、選挙応援のために関係を続けるようなら、その応援政党のモラルが疑われるでしょう。

ただ、それでも思うことは、断絶すべきは「組織」としてのしがらみや癒着であり「教団」との関係断絶であって、「信者」が信仰や宗教を理由に、政治から締め出されたり、選挙応援を拒絶されたり、政治家生命を絶たれることがあってはならないと思うのです。

昨年9月の時点で自民党が発表した「教団と関連ある国会議員」の数は179名。地方議員に至ってはいまだ教団との関係性は続いているとの指摘がありますが、「教団」の便宜を図ろう(それにより選挙応援を受けよう)と言うのと、信仰・宗教に関わらず「人としての関係」を続けようということは分けて考えるべきだと、そう思います。

【参照】教団と政治 https://sakurai.blog/archives/286

 

さいごに ー 解散命令と教団の進べき方向

今後、政府がどう判断し、司法がどう判定するのか、私には分かりません。ただ、この体制が続くことが、日本社会のためになるとも、信徒のためになるとも、統一運動本来のビジョンに適うとも思いません。

日本教会内で「改革」に努めようとしている人たちがいることは知っています。しかし、それをするにも、問題は問題として認め、社会に誠意を示す必要があるでしょうし、組織の立て直しが先なら、少なくとも、社会と乖離して突き進む、韓国指導部とは一線を画す”決断”を下さなければならないと思うのです

日本社会との関係を断って(統一運動としての舵取りを大きく誤った)現指導部に追従し続けるのか、或いは、現指導部との関係を断ち切って、社会との関係修復を図るのか―、どちらが統一運動の伝統を守り、信徒を守ることになるのかを、本気で考えていただきたいと、そう願います。

最後に。教団の問題から一国の指導者を失ったことは悲痛の極みに他なりません。せめて、その大き過ぎる犠牲によって気付かされた社会的問題や関係者の苦痛が解消されることを願い、改めて、安倍元首相のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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