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統一教会と政治とのつながり ~教団と関係を断つことは宗教弾圧か?

※ 献金問題に続き、「宗教二世」をテーマに書いていくつもりでしたが、バタバタしているうちに年末になってしまいました…(涙)。今回は取り急ぎ、旧・統一教会の問題報道の発端となった「教団と政治のつながり」について、改めて取り上げてみたいと思います。

統一教会バッシングは「魔女狩り」か?

旧・統一教会(以下、教団)関連の取材を受けた際、「献金問題」と共に、決まって質問された内容が「教団と政治とのつながり」について、でした。(ちなみに3点目は「宗教二世」の問題です)

7月の事件以降、教団と自民党議員との“蜜月関係”が浮き彫りとなり、当人たちの答弁の曖昧さとも相まって、批判が相次ぎました。

これを受け、8月末、岸田首相は早々と(?) 教団との関係断絶を宣言。地方においても、9月には富山市議会が、11月には大阪市・富田林市が教団との断絶を決議し、教団側(信者・関連団体)は今月に入って、こうした決議が「信教の自由」を侵害するものであるとして訴えを起こしました。

教団の法人解体を望む声が高まる一方で、こうした教団(及び教団と関係した政治家)を糾弾する昨今の風潮に対し、これは他ならぬ「魔女狩り」であり「宗教弾圧」だとする声もまた上がっています。

「統一教会魔女狩り騒動」を断罪 (月刊Hanada、12/20)他

https://www.google.com/amp/s/tsurishinobu.hatenablog.com/entry/2022/12/21/023358%3famp=1 

先日、とある記者の方から、改めて、「櫻井さん自身はどう思いますか?」と訊かれました。

私は教団の在り方に問題を提起してきた立場ですが、一方で、教団(厳密にはその関連団体)と接点があったとされる議員を十把一絡げに糾弾する在り方や、教団の関連団体や信者の政治活動そのものを「反日団体」「売国行為」であるかのようにあげつらう論調には、違和感を覚えてなりませんでした。

しかし、だからといって、これを「宗教弾圧」だとして一般化し、教団の問題から目を背けることもまた“違う”と思っています。問題の本質と行き過ぎた論調とは、分けて考える必要があると思うのです。

本来、政治の領域にまで踏み込むつもりはありませんでしたが、いまだに続く“誤解”を解消する上で、私自身がこれまで見聞きし、今思うところを、その間、取材の中で回答してきたこと―しかし記事には取り上げられなかったこと―まで含めて記してみたいと思います。

政教分離と信教の自由 ― 教団が政治と関わることの何が問題か?

教団は自民党との関係が指摘され始めた当初から、「宗教団体が政治に関わることの何が問題か? 信者の政治参加は国民の義務であり権利である」と反論してきました。

この辺りは、既に様々論じられてきたかと思いますが、「政教分離」の原則とは、「宗教が政治に関わること」を禁じるものではなく、「国(政府)が宗教に肩入れすること」、言わば、国が特定の宗教を優遇したり、特定の信仰を国民に強要することを禁じたものであって、むしろ「信教の自由」に通ずる原則でもありました。

特定の宗教に公的権力を付与しようものなら、他の宗教への弾圧につながりかねないからです

国家の「非宗教性」「宗教的中立性」は、何人たりとも特定の信仰を強要されず、自らが信じるものを(信じない自由も含めて)自ら選択できる権利と固く結びついたものであるといいます。

逆に、宗教団体やその信者が政治活動に参加したり、自分たちの理念に近い政党を支持、支援することは全くもって自由であり、政教分離の原則から見ても、何ら問題はない訳です。

むしろ、特定の信仰をもつという理由で政治参加が拒まれたり、選挙活動を行う者に「あなたは統一教会の信者か?」と問うことのほうが信教の自由に抵触してしまうでしょう。

正にこの点が、今々教団が主張している内容であり、宗教界が旧・統一教会に対する昨今の日本社会の対応を「行き過ぎた行為」「一種の宗教弾圧」と指摘する理由に違いありません。

では一体、何が問題なのか―。周知の通り、それは「特定宗教が政治に関わること」でも、「宗教団体が特定の政党を支持すること」でもありません。

一言で言うなら、(信教の自由があるとしても)宗教団体が“社会的問題”を起こしているなら、それは是正されるべきであって、これを取り締まるべき政治の側(国・政府)が宗教団体との“癒着”によって問題を看過、或いは擁護してきたのではないか、という点が問題とされている訳です。

これは、「政教分離」とか「信教の自由」とは、全く異なる課題であるに違いありません。

教団の問題を理由に、宗教全般の政治活動を危険視するのは行き過ぎた主張ですが、その逆、信教の自由を理由に、教団の問題を看過、擁護することも、「論点の摩り替え」でしかない、と思うのです。

首相の決別宣言と富山・大阪市議の決議 ― 教団との関係断絶は妥当か?

上述の通り、岸田首相が教団との決別を宣言したことに続き、富山市、大阪市及び富田林市においても、教団との関係断絶が決議されました。これに対して、富山市では教団信者が、大阪市・富田林市では関連団体が今月、「信教の自由」を侵害されたとして、決議の取消しと慰謝料を求め、提訴したことが報道されました。

事の是非はさておき、そもそも「旧・統一教会との関係断絶」というのは、一体どこまでの範囲を意味しているのでしょうか? 

教団との組織的・政治的関係を断つ、という範囲のものなのか。それとも、教団の信仰をもった議員は全員罷免するとか、教団信者の議員事務所への出入りを禁ずる、選挙応援にさえ「旧・統一教会の信者はお断り」と表明する、ということなのか―。

仮にその範囲まで及ぶとすれば、それは「信教の自由」に抵触するものとなるに違いありません。

また、いつの記事だったか、議員の側の本音としても、「無償で選挙に駆けつけ、献身的に活動してくれる旧・統一教会信者の存在はありがたかった。今さら宗教を理由に『帰ってくれ』」とは言えない」といった旨のコメントが紹介されていました。昨日のニュースでも、似たような県議会議員の答弁が掲載されています

栃木県議会重鎮 「ミヤネ屋」で旧統一教会と関係「責任負わなくちゃならないの?」

https://nordot.app/980069329508827136?c=768367547562557440

「教団との関係を断つ」ということの真意は、教団がもつ社会的問題を深刻に捉え、政治の側として公正に対処する、ということの表明であって、特定の宗教や信仰をもつ者(個々人)を差別したり、排除することではないはずです。

であれば、必要なことは、教団(並びに関連団体)が主催する会合への参加や祝辞等を一切控える等、「組織」としての関係を断つことまでではないでしょうか?

素人目線なのかもしれませんが、「教団」(組織)との関係断絶と「信者」(個人)との関係断絶は、分けて考えるべきではないかと思うのです。

実際、信者の方々は誠実で、一生懸命だったりします。地域でも、称賛されるような良い活動を行っている場合もあるでしょう。ただその一方で、教団内には様々な課題があることも事実であり、政治家が教団関連の会合に出席し、祝電を送ったりする場合、それが教団の活動を肯定し、“お墨付き”を与えてしまうことになるのも、紛れもない事実でしょう。(当人に自覚がなくとも、教団がこれを広報に用いるからです)

こうしたことから、政治家は(少なくとも問題が解決するまでは)「教団」との政治的関係は一切断ち、擁護したり便宜を図ることはしないまでも、信者が個々の政治的信念から選挙応援をすると言うなら、それは規制・排除できないのではないでしょうか?

自民党と教団との癒着? ― 保守政党が「反日団体」とつながり得るのか?

教団の問題が浮上してきて以来、ここ半年間にわたって自民党の責任が問われてきました。要は、教団の問題を看過、擁護、或いは隠蔽してきたという疑惑ゆえでしょう。

しかし、どの宗教、どの団体だろうと、依頼されれば講演に応じ、祝電を送るのは、ある意味、政治家としては自然な行為であって、冒頭で述べたように、教団と“接点をもっただけ”で断罪するのは明らかに行き過ぎでしょう。

無論、祝辞の送り先や応援団体の背景や素性の精査を怠ったとの指摘は免れないのかもしれませんが、実際、今回の騒動が起こるまで、「教団の問題がこれほどまでとは思ってなかった」というケースが大半なのではないでしょうか?

本当に教団内部の問題を分かっていてこれを容認し、擁護し、隠蔽してきた政治家がいたとすれば、それは厳重に処罰されるべきだと思います。しかし、教団の中にいた立場ですら、分かっていなかった問題があった程です。外部の政治家がどれほど把握できていたでしょうか? 

しかも、議員がそもそも接点を持っていたのは教団本体ではなく、その「関連団体」でした。多くの場合、議員の方々が信頼し、賛意を示していたのは(教団ではなく)「勝共連合」でしょう。

はっきり言って、今の教団と勝共連合は“別物”です。

報道を見ると、「勝共は教団の隠れ蓑であって、その本質は“反日団体”だ」といった指摘がありますが、仮に勝共連合が「反日団体」だったなら、たとえ票が欲しいからと言って、自民党という保守政党が本当に友好関係を結んでいたでしょうか? それは、普通に考えて、理解し難い話でしかありません。

以前の記事で触れたように、統一運動は元来、「愛国運動」でした。

統一運動を反日団体だとする根拠として、教団の教えにある「韓国はアダム国家、日本はエバ国家」(=聖書に登場する人類始祖の意)ということを挙げ、これが「日本=韓国に従属する国」を意味する、とする指摘があります。

しかし、これは極めて恣意的な解釈であって、日韓は共にアジアの平和を担うべき基軸であって「運命共同体」である、というのがその本質的な意味です。これに米国を加え、日韓米の結束を固め、ソ連(ロシア)・中国・北朝鮮の共産化から世界を守る、というのが設立当初からの勝共連合の観点でした。

したがって、統一運動は「親韓」ではあっても、「反日」ではありません。

自虐史観をベースに日本の罪を強調したのは2000年代の「清平(チョンピョン)修練苑」であり、こうした内容が、日本教会における現場の献金摂理の推進に利用されてきたことは否めない事実です。が、少なくとも、この流れは勝共連合とは相容れないものでした。

いえ、もっとはっきり言うなら、勝共関係者をはじめ、教団内でも、本来の統一運動の視点から、清平が強調する「反日的」な指導には、長らく、反対・反発の声があったことも事実です。

教団と勝共連合との関係 ― 関連団体は教団の布教手段だったのか?

最初に取材を受けた時から、教団と関連団体(勝共連合・平和連合等)の関係について問われました。中には、「組織的な選挙活動や票の割り振りがあったのか」といった質問も受けましたが、正直、私が答えられることはありませんでした。一切、関わっていないからです。

関連団体と教団との関係は、一言で言うなら、「本部は縦割り、現場は一緒くた」というものです。教団本部そのものも縦割り組織で、他部局の状況を十分共有できていた訳ではありませんが、他団体となれば尚更でした。

教団の関連団体は、内部では「摂理機関」と呼ばれ、その責任者は「機関長」と呼ばれていましたが、この機関長と本部局長とはミッションが異なるため会議は別。

教団本部の局長たちが摂理機関の方針や戦略―例えば、どの政治家を応援するか―等を把握している訳でもなければ、共に話し合ったこともありません。

教団の上役(総会長・会長)が機関長会議を招集していたことは事実ですが、教団責任者が各機関の人事権や決裁権をもっていた訳ではありませんでした。

無論、教団本部から一部、経済支援を受けていたり、教団本部(特に韓国・世界本部)に宗教的権威がある以上、言わば、「教団への忖度」があったことは否めませんが、少なくとも、関連団体は教団の布教や便宜のために活動していた訳ではありませんでした。

一方で、こうしたミッションの違いも、現場に降りると「一緒くた」になってしまう傾向はありました。各機関における支部長の方々も、いずれかの地域教会に所属する信徒です。そのため、支部長の立場から選挙応援の話をしたとしても、信徒から見る時、それが「他機関からの依頼」なのか、「教会内の指導」なのか混同してしまうこともあったことでしょう。

また、選挙に関心の高い教会長などは、自ら説明しようとしてしまうケースもあったと言います。特にそこで「宗教的意味づけ」などをしようものなら、それはもう信徒から見れば、「教会の指示」に他ならないでしょう。実際、信徒を動員しようとすれば、「教団のため」と説明したほうが効果的なのかもしれませんが、各機関からすれば、それは極めて「困ったケース」でしかありません。

勝共連合や平和連合等の各機関は、統一運動の理念に近い、保守政党の思想や政策を後押しし、それを共に実現しようと彼らを応援していた訳であって、決して、教団の布教や便宜を図るのために、信徒に選挙応援をお願いしていた訳ではないからです。

統一運動本来の理念を果たすために

統一運動における政治活動は元来、勝共連合を核としながら、愛国・保守の立場で推進されてきました。

勝共連合が設立されたのは、当時の共産化の脅威から日本を守るためであり、今でも、朝鮮半島の平和統一を含むアジアの平和と国防を目指しているはずです。

また、過激な性教育やジェンダーフリー思想など、家庭の価値や伝統を破壊しかねない流れから日本を守るといった観点から、保守派の思想や政策を支持しているものと理解しています。

即ち、勝共連合等の各機関は、愛国・保守に通ずる統一運動の理念を追求してきた訳であって、「教団のため」に取り組んでいた訳ではありませんでした。

本来、統一教会の設立目的も、そうした統一運動の理念を実現することであって、教団の存続や拡大、権勢や栄華を誇るためではありませんでした。

教団が自分たちのプロパガンダにばかり意識と関心を向けるようになったのは、ここ十数年のことです。教団本体の意識が内向きになればなるほど、勝共をはじめとする各機関の方向とは乖離が生じていくばかりに見えました。

勝共連合会長の梶栗正義氏が、保守派の議員と共通の志をもって取り組もうとも、肝心の教団本部がそうした議員を「教団の広告塔」としか見ていない、と漏らす、そんな映像が流れていましたが、他の勝共職員もまた、「外部の方々と家庭の価値を高めようと取り組んでいるのに、教団本体が家庭を破綻させてどうするんですか…」と苦情をもらしていたことがありました。

無論、勝共をはじめとする各機関が、教団本部(韓国本部を含む)との関係を整理し切れない限り、政界との断絶は免れないでしょう。ただ、教団と機関は一緒くたではない、という点だけは伝えておきたいと思います。

それから、改めて、信徒の方々にお伝えしたく思います。皆さんの選挙活動等の取り組みは、「教団のため」などではなく、日本の国のための貴い貢献でした。その真心は、議員の方々にも伝わっているに違いません。

しかし、それと「教団の問題」は別の話です。教団に問題があり、被害者を出してしまっている以上、政権与党が厳格な態度を示し、教団に処断を下すことは当然のことであり、仮にそうした問題を、馴れ合いによって有耶無耶にしてしまうようなら、それこそ、公正さを欠いた立場になってしまうでしょう。

私が言えることではありませんが、今後も教団のためではなく、日本の国防や伝統文化、家庭の価値を守るために保守政党を応援することは、統一運動の理念に適う活動であって、政治の側(国・政府)もこうした信徒たちの政治参加まで規制すべきではないと、私は思います。

教団がバッシングされているのは、教団の課題ゆえであって、信徒の方々が政治活動を通して示した真心や努力が否定されている訳ではない、と思うのです。

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