統一教会の信仰問題

統一教会とマインドコントロール!? ~信徒の信仰か? 教団の洗脳か?[後編]

前編(https://sakurai.blog/archives/574)では、マインドコントロールを巡る幾つかの論点について言及しました。

既に述べたように、たとえ統一教会(以下、教団)の信仰の在り方に理解し難い部分があったとしても、それを「マインドコントロール」だとするには根拠が不十分であり、そうした断定は信徒の人権や信教の自由を損ねるものになってしまうでしょう。

しかし一方で、教団の信仰指導の在り方は、内部から見ても、「信徒を統制している」とも言われかねない大きな問題がありました。

ここでは、そうした課題について率直に取り上げながら、何が信徒の「真の解放」につながり得るのかについて考えてみたいと思います。

教団の信仰指導の問題 ー 信徒の自立か? 組織への依存か?

マインドコントロールの結果として挙げられていた「人格の変容」や「価値観の変容」というのは、「信仰の目覚め」や「宗教的回心」においても、同じく見られる現象です。

仮に当人が信仰によって心の平安を見出し、人生の意味を発見し、はつらつと生きる姿に変わるなら、それは歓迎すべき「変化」であるに違いありません。

私はそうした信仰を得る上で、一時、世俗から離れて修練を行ったり、集団生活を送ることも意義あることと捉えていますが、大切なことはその信仰が「健全なもの」であるかどうか―です。それは「結果」を見れば分かるでしょう。

教育の目的が「子どもの自立」にあるように、信教教育の目的は「信徒の信仰自立」(主体的信仰の確立)にあります。

どんな宗教であれ、その教えを受け続けた結果、「自立した信徒」ではない、(教団・組織に)「依存する信徒」を生み出しているとすれば、その教えや信仰は決して健全だとは言えないでしょう。

私が感じてきた教団の根本問題の一つは、多くの信徒から「自ら考え、判断し、決定する力と権利」を奪ってしまっていることでした。

これは、私一人の所感ではなく、多くの教育者が感じてきたことです。そして、これは本来の統一運動の教えではありませんでした。

「原理」(=統一運動の教え)は、人には神でさえも干渉できない「自由と責任」が与えられていることを教えています。

歴史に働く神の力は壮大であって、それに比べ、人間の力は微々たるものに過ぎないけれど(=5%と表現)、その人間の責任が果たされない限り、歴史は動かないし、神の目的も果たされない―。この「5%の責任」こそ、原理の教えの核心的要素であり、他の存在と異なる人間の尊厳性であって、神の摂理歴史を紐解く鍵でもありました。

しかし…、教団の指導の在り方はこの教えとは「逆」だったと言わざるを得ません。

ありとあらゆる決定を、時には家庭内で決定すべき内容であっても、教会指導者(教団内では「アベル」と呼称)に指示を仰がなければならないとする組織体制、組織文化を作り上げていたからです。

自立した信徒が全くいなかったなどと極論するつもりはありません。しかし、教団の指導体制は決して信徒の自立(主体性)を促すものではなく、信徒を組織の指示に従わせ、主管・コントロールし易くしようとするものだった…というのが、私の偽らざる率直な実感です。

「組織信仰」の弊害 ー 組織を信じるのか? 神を信じるのか?

大きなビジョンや目的を成し遂げる上で、組織が重要であることは私にも分かります。

しかし、この教会はいつの間にか組織が「目的」となり、組織を守ることが、信徒を守ることよりも、或いは、私たちの本来の信条や精神を守ることよりも、優先されるようになってしまった、と思えてなりません。

信徒の方々に思い返していただきたいのです。

最初は皆、「原理」を通して信仰の道に入ったはずです。実際は物販や開運、先祖解怨といった「原理以外のもの」が入口となったケースも多いかもしれませんが、それでも「信仰」をもつに至ったのは「原理」に何らかの共感を覚えたからではないでしょうか?

しかし今、多くの方々は、「原理」に忠実であろうとするよりも、「組織」に忠実であろうとしています。組織が「原理」でないものを志向していても、原理を都合のいいように歪曲していても、それでも「組織」に従ってしまうのです。

多くの二世たちが教会を離れたのは、神や原理に幻滅したからではなく、“原理的でない”人間模様や組織の在り方に問題を感じたからでした。

「信仰」(faith)とは、本来「神」に対して用いる言葉であって、人や組織に対する言葉ではありません。

私たちは目に見えない神を信じ、組織や人間の思惑・事情をも越えた変わらない善の基準、真実や正義、愛といった普遍的価値や真理を信じるのであって、人間からも、組織からも“自立”したもの、“超越”したものが信仰であるはずです。

特定の組織や教団の繁栄・栄光のために、個人の自立が妨げられたり、家庭や家族関係が破綻したり、社会の公益が損なわれるようなことを、私たちの信仰は「善」だとは教えていないはずです。

そうした善悪の判断を「組織」に委ねてしまうなら、それはもはや「信仰」ではなく、「依存」と言うべきものなのではないでしょうか? 「教会の指示に従うことが信仰だ」などという話は、原理のどこにも書かれていないはずです。

私も教団に対する愛着の強い人間でした。でも、今、守るべきは組織ではなく、信徒であり、二世たち個々の未来であって、統一運動本来の信仰であり精神だと思うのです。

開かれた対話と個々の責任 ー 情報統制・思想統制を越えて

教団は予てから、教団にとって不都合な事実に蓋をし、信徒に入る情報を統制し、教団の在り方を疑問視する声を封殺してきた経緯がありました。曰く、「信徒を混乱から守るため」です。

私たち草創期の二世は皆、教団の良いところも、悪いところも見て育ってきました。高尚な理想や志に惹かれる一方で、その逆、教団内には独善的で閉鎖的な組織文化があることも承知していました。

欠点や不足のある人間が作り出す組織です。問題もあって然りでしょう。私は単に「問題があること」をもって、教団を全否定しようとしたことはありませんでした。

しかし、問題を問題として取り挙げず、信徒を外部情報から遠ざけ、組織の在り方に異を唱える者を「不穏分子」のようにして締め出してしまうことには、強い危機感を覚えざるを得ませんでした。

恐らく、このブログも「見てはいけない情報」とされ、横々で共有しようものなら、教団内で断罪されてしまうでしょう。

私はこれを読まれている信徒の方々に、必ずしも同調・賛同を求めようとは思いません。同じ事実や情報に触れても、判断・決断を下すべきは一人ひとりだからです。

しかし、少なくとも、現教団と個々の信仰の在り方について、今一度向き合い、見つめ直し、「考える機会」にしていただきたいのです。

内部の改革に向け、日本教会が国内で講じ得る“精一杯の努力”を傾けているのは感じています。

であっても、韓国本部が推進する「教権拡大」の方向性は、統一運動の精神とも、故・文総裁の志とも真逆であって、その在り方を支持し続ける限り、「献金摂理」からも、「組織信仰」からも抜け出すことはできないでしょう。

もし、「いや、私はその方向性を正しいと信じている」というのであれば、私にはそれ以上言えることはないでしょう。

でも、そうであるなら、少なくとも、その信仰と決断に、信徒の一人ひとりが—社会に対しても、家族に対しても、二世たちに対しても―「責任」を負わなければならないと思うのです。

一人ひとりが、今起こっている事実に目を向け、被害を訴える二世や家族の声にも耳を傾け、組織の指示や統制に縛られない「開かれた対話」に努めていただくことを心から願います。

最後に―。私は、マインドコントロール理論を支持する立場では全くありませんが、信徒が組織の“統制”から「解放」されなければならないという点では同感です。

ただ、それは、信徒の信仰を否定し、信教の自由を奪うことによってではなく、信徒自身の信仰的自立によって―組織への依存、服従、同調などではない“主体的信仰”を確立することによって―もたらされるべきだと思うのです。

【後編】ポイント

・信仰教育の目的は信徒の信仰自立にあるのであって、信仰するほど教団に依存するようになるなら、それは健全な信仰とは言えない。

・現教団では、神や原理ではなく組織に従うことが信仰となり、組織の目的が信徒の成熟や家庭の幸福よりも優先されてしまっている。

・教団内では信徒を守るとして情報を統制しているが、信徒個々が事実に目を向け、開かれた対話をもって責任ある決断をすべき。

・信徒の真の解放は、信徒の信教の自由や責任を否定することによってではなく、信徒個々の信仰自立によってもたらされると信じる。

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