昨年の事件より遥か前から、統一教会関連の報道がなされる度に、よく「洗脳」または「マインドコントロール」という言葉が用いられてきました。
過去、信者が皆一様に寝食を忘れ、組織目標を追いかける様を見た時、或いは、彼らが教団の目的のために常識範囲を越えた犠牲を払おうとする姿を見た時、人々の目には、信者たちが皆、組織によって“コントロール”されているように見えたのでしょう。
しかし、それが個々の自主的な「信仰」によるものなのか、はたまた教団の巧妙な「洗脳」によるものなのか、見極めることは困難であるに違いありません。
仮に、彼らが一般的に“理解し難いこと”を信じているとして、「だから洗脳でありマインドコントロールなのだ」と言われてしまうなら、あらゆる宗教者たちもまた、同じレッテルを貼られてしまうでしょう。
どんな宗教の中にも、常識では理解し難い様々なビリーフ(信念・信条・思い込み)があるからです。
しかし―。統一教会(教団)の布教活動や信仰形態に対し、これまで多くの批判が寄せられてきたことには、それなりの理由があったと私は思っています。
信徒一人ひとりの信仰は大切にすべきですが、教団内の信仰指導、信徒管理の在り方には、“コントロールされている”とも指摘されかねない課題がありました。
無論、昔と今とでは、教団内の状況も違いますし、「マインドコントロールだ~!」とする外部の指摘の中には、教団の“過去の話”でしかない部分も見受けられますが、それでも尚、教団内に根強く残る信仰問題があることは否定できません。
ここでは、マインドコントロールにまつわる一般論と共に、私が教団内で感じてきた信仰問題の一端について言及したいと思います。誤解は誤解、課題は課題として区別していただきたいと思うからです。
マインドコントロールとは ― 「洗脳」との共通点と違い
明確な定義は確立されていないようですが、マインドコントロールを日本語訳するなら「心理操作」。即ち、特定の人や組織(集団)が他者の思考や感情を操作し、自分たちの目的に適った意思決定や行動へと誘導することを言います。
その主な「方法」としては、長期にわたって環境や行動、思想や情報を統制すること。
即ち、集団生活等を通して環境や行動を管理したり、外部の情報を遮断し、特定の思想や価値観、ビリーフを繰り返し注入すること等が挙げられます。
不安や罪意識、強迫観念等を煽って特定の行動へと駆り立てる「感情の統制(操作)」もまた、これに含まれるでしょう。
マインドコントール研究の第一人者とされる心理学者のスティーブン・ハッサン氏は、マインドコントロールを上に挙げたような事項、①行動コントロール、②思想コントロール、③感情コントロール、④情報コントールの4つから説明しています。
また、その「結果」としてよく引き合いに出されるものには、人格の変容、依存と服従、反社会的行動等が挙げられます。
具体的に言うなら、自己判断能力を失って特定の人や組織の指示に「依存」「服従」するようになったり、組織が提示する教えが社会のルールや法律に優先され、それが違法行為や反社会的行動につながったり。さらには、新たに植え付けられたビリーフによって、操作側の目的に適った「新たな人格」が形成される、といった内容です。
「過去の思考や信条が塗り替えられ、特定の思想や信条が植え付けられる」という点では、「洗脳」と同義語として用いられもしますが、マインドコントロールの場合、身体的な拘束や薬物投与といった違法的な強制力、「物理的な暴力」を伴わない点で、いわゆる「洗脳」とは区別されるようです。
とは言え、巧妙な心理操作によって、本人も気付けないまま、徐々に(組織の願う方向に)感化・教化されるという訳ですから、これもまた「ソフトな洗脳」であって、むしろ人々から恐れられ、警戒されざるを得ないのでしょう。
マインドコントロール理論の是非 ー 事実に基づく主張か? 反対派の空論か?
さて、こうしたマインドコントロール理論に対し、教団側ではそれが「反対派」によって作り上げられたセオリーであり、反宗教的イデオロギーを背景とする空論であると反駁してきました。
事実、日本でマインドコントロール理論を広げていったのは、統一教会信者の「脱会活動」を進めていたグループであって、その理論的根拠となった「マインドコントロールの恐怖」の著者、上述のスティーブン・ハッサン氏もまた、教団の元信者でした。
言わば、特定の意図をもって構築された理論であったことから、学者の中にも、マインドコントロール理論が立論当初から「価値中立的でなかった」とする指摘も見られ、学術的根拠を疑問視する声も挙げられているようです。
実際、マインドコントロールと言うと、それこそ、信者が催眠にかかった操り人形のように、教祖や教団の指示(テレパシー?)によって精神コントロールされたり、信者と交わるだけでマインドコントロールされる……といったSFまがいのイメージまで独り歩きしていた感がありますが、それは普通に考えてあり得ない話でしょう。
しかし、学術的な是非はさておき、過去、教団内において、実際、過剰なまでに信徒の私生活や行動、人間関係や家庭問題といった個々のプライバシーまで踏み込んで干渉し、管理・統制しようとするケースが多かったことは事実でした。
特に若者・青年においては、集団生活を強く推奨しながら、徹底した「生活管理」を実施してきた経緯もありました。ちなみに、こうした統制・管理は、教団内では「主管」と呼ばれ、信仰教育に欠かせないものと捉える傾向が強くありました。
90年代終わりから2000年代にかけ、私たちが二世教育を立ち上げていく中で直面した、現場教会との価値観の違い、衝突の一つがこの「主管」という考え方でした。
当時、周囲からは「二世教育は“主管”が甘い」「二世をちゃんと“主管”できていない」とも言われましたが、私たちは教育の目的を「二世の信仰自立」に置いていたのであって、何か組織に従属させ、その指示に従う二世を育てよう、などとは考えていませんでした。
二世教育が定着し、二世の指導者たちが増えていった今、少なくとも、教団内の二世教育、青年指導の在り方は、過去、「マインドコントロール」として非難されていた時代のものとは大きく違っているはずです。
しかし、それでも尚、一世を含む教団全体の信仰指導や組織文化を見る時、いまだ、組織の指示命令に服従、依存させようとする文化が根強く残っていることは、教団をよく知る人であればある程、否定できない事実であるに違いありません。(この点は後編で記そうと思います。)
マインドコントロールと拉致問題 ー 信教の自由か? 洗脳からの解放か?
マインドコントロールという主張は、必然的に、「信教の自由」というテーゼと衝突せざるを得ません。
昨年11月、「被害者救済法案」を巡って野党が提出した案には、「マインドコントロール下での献金は家族が代わって取り消せる」という内容が盛り込まれていました。が、政府・与党はこれを却下。
理由はひとえに、何をもって、本人が“マインドコントロール状態”にあったと言えるかは定義のしようがないからです。
信仰は時として、自ら進んで「自己犠牲の道」を選択、決断することもあります。
私は家庭を顧みない、過度な献金の在り方には、強く問題意識を抱いており、それが統一運動本来の方向性に適った信仰の在り方だとも思っていません。
しかし、それでも、その個々の選択を皆、本人の「信仰」ではなく、教団の「洗脳・操作」によるものだと断定してしまうことは、本人の信仰や人格、意思決定の自由や権利を否定してしまうことであって、そこは慎重に捉えるべきだと思うのです。
かつて、オウム真理教の裁判で、「犯行に及んだ信者たちはマインドコントロール下にあったため判断能力(責任能力)がなかった」という弁護団の主張が“退けられた”経緯がありました。
マインドコントロールということを安易に認めてしまう場合、信教の自由を否定すると同時に、宗教を信じる者自身の“責任”を問えなくなる状況を招いてしまうでしょう。
また、さらに深刻な問題になり得るのは、信者を「マインドコントロール下にある被害者」とみなす場合、それを“解く”ためには非常手段を講じることも構わないといった「極論」をも生み出してしまうことです。
それが、教団信徒の「拉致監禁」という多大な被害をもたらした要因にもなりました。
ここでは深く踏み込もうとは思いませんが、教団の信仰指導の在り方に問題があったとして、その状態から「解放」するという名目で、信徒個人を拉致して監禁し、環境・行動・思想・情報を統制し、コントロールしようというなら、それもまた同じ(或いはそれ以上の)「洗脳」行為であって、信徒の信仰や人格、意思決定を尊重しない、もう一つの暴力となるに違いありません。
教団の教えが家庭に多大な犠牲を強いてきたことについて、私も責任を痛感するものであり、それを何とかしたいご家族の思いも分からなくありません。 ただ、そのためには継続的な「対話」が必要であって、信徒を解放するための手段が、信徒の人権や信教の自由を脅かすものになってしまってはならないと思うのです。
【前編】ポイント
・マインドコントロール理論が教団を反対するグループによって広がったことから、教団ではそれが反対派による空論だと反駁している。
・ただし、教団内でも実際に信徒の生活や行動を過度に統制・管理してきたことがあり、その考え方が二世教育の観点と衝突することもあった。
・マインドコントロール状態の定義は難しく、安易な断定は信徒の信教の自由や責任を否定し、強制的な脱会を正当化する根拠ともなる。