統一教会の信仰問題 統一教会の現状

統一教会の信仰とカルト問題 ~公益的団体か? 反社会的カルトか?[前編]

昨日8日、東京都は、旧・統一教会が多摩市内に広大な土地を購入していたことを巡り、住民の不安や反対の声が高まっていることを受け、教団の実態把握とその対応を求める要望書を国に提出しました。

教団への最後の質問権(6回目)が行使されてから早2週間。遅々として進まない国の対応に、様々な声もあるようですが、実際、統一教会というのは、国から見ても、実態の捉え難い団体なのかもしれません。

メディアから質問を受ける度に思いましたが、外部から統一教会を見る時、極めて全体像が掴みづらいのは、何よりも、この教団・運動のもつ「二面性」に原因があるに違いありません。

霊感商法や高額献金、信徒の犠牲の上で進められる教団の豪華施設の建築等々、傍から見れば、良識やモラルを欠いた独善的な“カルト集団”にしか見えない側面がある一方で、世界各地で展開される平和運動や各種フォーラム、家庭再建に向けた地道な活動など、保守系の人士や一定の知識層から支持され、評価されている側面があることもまた事実なのです。

有益な団体なのか、有害な団体なのか。
公益性のある運動体なのか、反社会的カルトなのか―。

統一教会と統一運動の違い、教団本体と関連団体(勝共連合等)との違い等も、実態を掴みにくくしている一因と言えますが(過去の記事参照:下記)、根本的には、教団内の教えと信仰観そのものに「二面性」を生み出す深刻な課題—“カルト”に陥り易い要因—があったと私は思っています。

<参照> 統一教会と統一運動 https://sakurai.blog/archives/89
<参照> 統一教会と政治とのつながり https://sakurai.blog/archives/286 (→「教団と勝共連合との関係」)

今回は改めて“カルト問題”について振り返りながら、私が教団内で見てきた「教えと信仰の問題点」について触れてみたいと思います。

組織をどう改善しようとも、誤った信仰(観)が正されない限り、問題は解決し得ないと思うからです。

カルト・セクトの意味 ー 新宗教に対するレッテル?

“カルト”(cult)の定義については、いまだ統一見解がありませんが、語源は「礼拝」「崇拝」を意味する“cultus”。端的には、特定の人や思想、信条等を熱烈に礼賛し支持する「熱狂的な小集団」を指して言います。

大学時代、「宗教社会学」の授業で学んだことがありましたが、カルトは元々、「宗派」「分派」を意味する“セクト”(Sect)と合わせ、キリスト教の主流派(チャーチ:Church)に対する「新宗教」研究の中で用いられてきた学術用語でした。

即ち、カルトもセクトも、その社会における支配的な宗教(=伝統宗教)に対して信仰・信条を異にする宗教グループを言い、①カリスマ的指導者を熱狂的に支持し、②小規模で明確な組織形態をもたないこと(=信者と非信者の境界がはっきりしない)等がその特徴とされました。

また、研究当初は総じて“セクト”とされていましたが、その後、セクトが「キリスト教内の分派・少数派」を指すのに対し、「非キリスト教系」の異国の宗教が“カルト”と呼ばれるようになります。

言わば、カルトもセクトも、本来は「価値中立的」な呼称であり、諸宗教に見られる「初期段階の形態」であって、それが組織化・制度化され、社会に根付いていくことで“伝統宗教”として定着していく、といった見方もありました。

実際、欧米社会の主流を成すキリスト教自体、元はユダヤ教に対する「少数派」として始まったのであって、イエス・キリスト、またはその弟子たちを中心とする初期グループの形態は、それこそ、上述のカルト・セクトの特徴がそのまま当てはまると言われています。

ところが、新宗教はやがてキリスト教主流派から“異端”として警戒されていくようになり、同時に「人民寺院」の集団自殺(1978年)等、熱狂的グループによって引き起こされた事件を機に、「反社会的集団」としてのカルト・セクト概念が、メディアを介して一斉に広がることとなるのです。

ちなみに、そうした“反社会的集団”は、ヨーロッパでは「セクト」、アメリカ・日本では「カルト」と呼ばれ、それらが昨今におけるカルト・セクトの一般的な認識となりました。

そのため、これらの呼称は今や学術的意味合いではなく、新宗教(新興宗教)に対する“蔑称”として用いられ、特定の団体に“ネガティブなレッテル張り”をするのに使用されるようになったと言われています。

“破壊的カルト”の特徴 ー 統一教会はカルトなのか?

周知の通り、日本でもオウム真理教の一件(地下鉄サリン事件:1995年)を機に、「カルトは怪しいもの、危険なもの、関わってはならないもの」といった認識が一気に広がっていきました。

そうした警戒心は”マインドコントロール理論”の拡散とも相まって、無害な新宗教、ひいては宗教全般に対する不信感や嫌悪感にまで飛び火していったとされています。

昨年から再燃した統一教会問題も踏まえ、今、社会が問題視している“カルト”の基準とは、ひとえに「反社会性」(違法性)という一点に向けられています。

信じていることが社会通念から外れていようと(=特異集団)、主流派の信仰から逸脱していようと(=異端)、「反社会的行為」に及んでいなければ、(現代で言うところの)“カルト”とは言えないでしょう。

一方で、逆に(熱狂的小グループでなくとも)制度化・組織化された大グループであろうと、社会に根付き、政治的基盤まで持ち合わせている団体であろうとも、「反社会的だ!」とされた時点で、“カルト”と判定されてしまうに違いありません。

昨今では、特にこうした「反社会的団体」を表すのに“破壊的カルト”という言葉も用いられているようです。ただ、何をもって「反社会的」とみなすのか―。

竹内綱史(たけうち・つなふみ)准教授は「現代日本における“反社会性”の指標は“人権侵害”をしているかどうかだ」と述べています。

<参照>『「カルト」の楽しさ、「自由」のしんどさ』(竹内綱史)https://www.ryukoku.ac.jp/shukyo/publication/data/vol134_takeuchi.pdf

 

カルト問題を研究している「日本脱カルト協会」は、“破壊的カルト”を「人権侵害を行う組織」であり、組織活動をさせるために個人の自由を極端に制限する全体主義的集団だとしながら、次のような特徴を挙げています。

  • 個々の私生活を奪い、集団活動に埋没させる
  • 組織やリーダーへの絶対服従を強いる
  • 内外の批判を封鎖する

統一教会はオウム真理教のように、明白な刑事事件・刑事犯罪に及んだこと(それが立証されたこと)はありません。しかし、組織の目的達成のために、思想や情報を過度に統制し、信徒を無理な献金活動に駆り立て、数多くの家庭不和や自己破産をきたしてきたことは事実でした。

“カルト”をテーマとする討論番組の中で、批評家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)氏は「恐怖」「搾取」「拘束」といった3点を、一般宗教と“カルト”を分かつ一線であると述べています。

<参照> NHK Eテレ「こころの時代」“カルト”ってなんだろう?https://www2.nhk.or.jp/learning/video/?das_id=D0024010431_00000

相手に不安や恐怖を植え付けたり、生活破綻に至る程の金銭を求めたり、過剰な統制・拘束を課すようなら、それはもう既に「宗教」の枠を逸脱している、と言わざるを得ないのでしょう。人々に魂の救いや心の平安、豊かな人生をもたらすものが宗教であるはずだからです。

無論、“カルト”という曖昧な言葉を特定の団体に用いるべきではないと思いますが、統一教会に上述のような“カルト性”が見られたことは否めない事実でした。ただ、それは決して、統一運動本来の教えと信仰によるものではなく、教団によって生み出された“誤った教えと信仰観”がもたらした結果だったのです。(詳細は後編で記したいと思います)

“反セクト法”を巡る対立 ー カルトは規制し得るのか?

昨年、統一教会問題が取り沙汰されたことを受け、「カルトを規制する方案」として、いち早く議論の俎上に上がったものが「反セクト法」でした。

周知の通り、これは2001年、フランスにおいて、国民の人権を脅かす“カルト的集団”の行動を、国が責任をもって取り締まるための施策として制定されたものですが、注目されたのは、“カルト”とみなす「具体的行為」の基準(10項目)が示されている点でした。

<参照> 反セクト法、“カルト”とみなす10項目(人権侵害行為)
①精神の不安定化、②法外な金銭要求、③元の環境からの意図的引き離し、④身体への危害、⑤児童の強制的入信、⑥反社会的な言説、⑦公共の秩序を乱す行為、⑧多大な訴訟問題、⑨通常の経済流通からの逸脱、⑩国家権力への浸透の企て

これを受け、教団側は即、それがフランス国内でも批判のあった“危険な法律”であり、「信教の自由」を脅かすものだと反駁しています。

<参照> 統一教会・3回目の記者会見 (終盤、福本弁護士のコメント)https://blog.goo.ne.jp/torl_001/e/0da3766599f893bca4c214783e4a2066

実際、反セクト法については、それがフランスの伝統宗教であるカトリックを擁護し、宗教的マイノリティを排斥するものであって、国が特定宗教を優遇しないという「政教分離」(ライシテ)の原則にも反する、といった批判もあるようです。

この点、消費者庁の有識者検討会の委員を務めた菅野志桜里(かんの・しおり)弁護士は、反セクト法の焦点はあくまで「行為・行動」(=違法行為があるか否か)にあるのであって、「信仰・教え」(=何を信じているか)に踏み込むものではないため、「信教の自由」に抵触するものではない、と回答しています。

<参照> 関西テレビニュース 『日本の「カルト規制」どうすべき?』 https://www.ktv.jp/news/feature/220908-5/

“カルト”の「教え」は規制できずとも、“カルト”の「行動」は規制できる―。これが大方の見つめ方であって、そうした議論の帰結が、昨年12月に制定された「被害者救済法案」に他なりません。

ただ、そもそも現行法では裁けない行為(=犯罪とみなされない行為)を「人権侵害」として取り締まろうという訳ですから、少なくとも、被害を被ったとされる当人に「被害感情」がない限り——即ち「信者」自身が被害として受け止めていない限り——それら“カルト”的行為を処断することは困難でしょう。

過度な拘束や思想統制があろうとも、法外な献金要請が課せられようとも、当人がそれを“信仰”として受け入れていた(=自主的に行った信仰的行為だった)とされた時点で、人権侵害だとは言えなくなってしまう訳です。

そこで持ち出されたものが“マインドコントロール理論”でした。即ち、法外な献金等の行為は「本人の信仰」ではなく「カルトの洗脳」によるものだった、という立論ですが、そう言い切れる学術的根拠は不十分であり、それこそ、信仰する者の権利を否定するものだ、とする反論を招かざるを得ませんでした。

反セクト法には“マインドコントロール”を処罰する項目があったことも注目されましたが、「信教の自由」という垣根に阻まれ、結果、そうした項目が救済法案に盛り込まれることはありませんでした。

<参照> 反セクト法、“マインドコントロール”(心理操作)に対する処罰
「無知あるいは脆弱な状況を不法に利用する罪」を明示。具体的には、①未成年者、身体障害、精神的問題など著しい脆弱状態にあることを行為者が知っている場合において、または、②著しい圧力・繰り返される圧力・判断力を侵害する技術により生じた心理的・身体的な隷属状態にある者に対して、重大な損害を生じさせる行為を行わせることが処罰の対象とされた。

信教の自由か、被害者の救済か―。“カルト規制”を巡る問題の難しさは、この問題が結局、信仰する権利を主張する「信者の人権」と、その信仰ゆえに被害を被ったとされる「被害者家族の人権」、即ち「人権と人権との対立」になってしまうからでしょう。

「人権」は現代社会が最も価値視する概念の一つですが、双方がこれを主張し続けたところで、人権と人権の平面的な衝突にしかならず、“カルト”は信者側の人権や信教の自由を隠れ蓑に、自らの正当性を主張するに違いありません。

私は思うのです。“カルト”の問題とは、「誰かの人権を侵害しているから問題だ」という以前に、宗教者として守るべき、目に見えない“普遍的なモラルやルール”を侵害していることからもたらされているのではないでしょうか?

「行動」は「価値観」(信仰・信条)の現れに他なりません。

当然、カルト的な「行動」を規制する法整備も重要であり、その努力も大切だと思いますが、抜本的な解決のためには、どうしても、その「行動」の背後にある「価値観」、言わば、軌道を逸したその「教え」や「信仰」の歪みにメスが入らなければならないと思うのです。

“カルト性”を生む教えと信仰 ー 宗教は何を信じてもいいのか?

「宗教としては何を信じても構わないが、反社会的行為は処罰されなければならない」、これが“信教の自由”に鑑みるところの昨今の一般的な捉え方であるに違いありません。

しかし、反社会的行為に及びさえしなければ、宗教は何を信じてもいいのでしょうか? 私にはそうは思えません。

世の中には多種多様な宗教があり、各々がそれぞれの土壌や民族性に根差した独創的な文化を作り上げてきました。それは大事にすべき遺産だと考えますが、どんな宗教がどんなことを信じようとも、まずもって根底に持つべき「普遍的価値と原則」があると思うのです。

宗教学者の櫻井義秀(さくらい・よしひで)教授が「宗教団体のカルト化」をテーマに、「宗教と倫理の関係性」について言及しています。

<参照> 『「宗教」と「カルト」のあいだ』(櫻井義秀)https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/83/2/83_KJ00005698131/_pdf/-char/ja

端的に言うなら、“宗教”は各時代にあって、その国や社会の“倫理”を形成する足場となってきた。しかし倫理が“普遍的”な価値や規範として社会に根付いて行ったのに対し、宗教は固有の文化や制度を築き上げ、(必ずしも倫理の枠内に留まらない)“特殊性”を生んできた―。そのため、宗教と倫理の間には常に“緊張関係”があって、その“特殊”な「宗教的信念」が“普遍”的な「倫理的規範」を超え、逸脱していくときに問題(=宗教団体のカルト化)が起こってくるのだ―という訳です。

宗教は得てして、自らの「信仰上のルール」を、「社会のルール」に勝るものとして位置づけます。信仰やその教えのためなら、社会ルールに反し、社会と対峙することすら厭わない訳です。それが、宗教が“恐れられる”理由でもあるのでしょう。

無論、社会のルール(その時代時代の社会規範や制度)が必ずしも“正しい”とは限りません。宗教を弾圧する社会の中では、神を信じることすら“反社会”とされ、自由言論を認めない国では、真実を発信することすら“国家反逆罪”とされてしまうに違いありません。

イエス・キリストの在り方もまた、当時のユダヤ社会にあっては“反社会的”な様相を呈していました。当時の社会のルール(律法)とは異なる、もう一つ内的ルール(愛)を堅持していたからです。

語弊を恐れずに言うなら、私は、宗教が「社会規範」を越え、逸脱していくこと自体に根本問題があるとは思いません。宗教のもつ超越したルールは、時として、社会の矛盾を照らし出し、社会変革をもたらす力にもなると思うからです。しかし、宗教には守らなければならないものがあって、それが普遍的な道徳であり、倫理だと思うのです。

自然界に科学の法則として知られる「普遍的原則」があるように、人の生き方にも「普遍的原則」があって、それが倫理、道徳と呼ばれるものであるに違いありません。それが、統一運動の教え(統一原理)がもつ観点でもありました。

人が存在する前から科学の法則があったように、倫理や道徳と呼ばれる目に見えない価値基準もまた“本来あるもの”であって、“天から来たもの”だと思うのです。

たとえ時の権力者が、自らに都合の良いような法律を作り出したとしても、人の内なる法則は、絶えず、普遍的な価値基準を志向し続けてきたはずです。

宗教の役割とは、そうした「普遍的価値と原理」(内的真理)を示し、それをもって人の精神性を高め、啓蒙することにあった、と原理は説いています。

仮に、特定の宗教が自らを利する教理を優先させ、普遍的原則を逸脱し、侵害するようなら――しかも、それを“神の名”のもとに断行するなら―それはもはや“神への冒涜”と言わざるを得ないでしょう。

私は、宗教に独自の信仰や価値観があってはならない、などと言いたいのではありません。ただ、健全な宗教は、独自の信仰の前に、普遍的原則やモラルに深く根付いていなければならないのであって、自らの特殊教理を普遍的原則、倫理・道徳よりも優先させるとき、そこに“カルト化”していく宗教の「独善性」や「閉鎖性」、「排他性」が生まれるのだと思うのです。

宗教学者の島薗進(しまぞの・すすむ)教授が、「何がカルトかの定義は難しいが、今、社会が懸念しているのは、その“閉鎖性”であり“排他性”である」と述べています。

統一運動には本来、「他のために生きる」「国と世界のために生きる」という普遍的価値と原理に基づいた高尚な精神と情熱が存在していました。それが数々の公益的活動を生み出してきたと思うのです。

しかし同時に、その一方で、絶えずくすぶり続けていたものが、自分たち教団の権益だけを求めようとする、もう一つの価値基準であって、それが教団の“カルト性”をもたらす歪んだ教えと信仰を生み出していました。

二世たちが反発を覚え、拒んでいたものは、そうした“歪められた信仰”であり、“独善的な教え”だったのです。後編では、この辺りの現実を簡潔に述べてみたいと思います。

【前編】ポイント

・カルトとは本来「伝統宗教」と信仰を異にする「新宗教」(=熱狂的小集団)を指すが、今や「反社会的団体」を意味する言葉となった。

・現代における反社会的行為とは「人権侵害」であり、組織目的のために個々を統制し、被害をもたらす団体を指して「破壊的カルト」という。

・カルト規制の方案制定が難しい理由は、それが「信教の自由」に抵触し、「信者の人権」と「被害者=家族の人権」とが衝突するからである。

・宗教は独自の信仰・教えの前に「普遍的原則」(倫理)に根差すべきであって、その原則から逸脱していくところにカルト問題の本質がある。

【中編】(https://sakurai.blog/archives/678)に続く

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