メディア報道 統一教会の歴史

統一教会と統一運動 ~メディア報道に見る誤解

不可解な団体

今回、記者の方々と触れ合い、質問に応じながら改めて思いましたが、この教会は外部から見る時、極めて「不可解な団体」であるに違いありません。

そもそも、どうしてこんな無理な献金体制が続いているのか?
なぜそんな「とんでもない組織」に人がのめり込むのか?
信者は皆「バカ」なのか?

一方、カメラの前でコメントしている教団幹部を見てみると、やたら賢そうにも見える。
また、紐解いてみれば、安倍首相をはじめ、海外でも、レーガン・ブッシュ両氏など、政界の名だたる大物たちがこの団体に賛辞を送っている。

全ては「金」の成せる業なのか? 
はたまた「選挙」のつながりなのか?
それにしても、なぜ「保守」の自民党が「反日」にしか見えない教団と近い関係を持ち続けてきたのか……。

この辺りのことは恐らく、この団体の興りと成り立ち、本来の思想や精神、並びにその歪みと病弊、本流からの逸脱といった、この団体が経てきた経緯の全体像が分からない限り、理解し難いことでしょう。結果、臆測や恣意的解釈ばかりが独り歩きしてしまうに違いありません。

私がこの団体のすべてを知っている、などと言うつもりはありません。ただ、この教会で生まれ、信徒が皆「家族」のようだった古き良き時代の教会に始まり、制度化・組織化された教団組織の弊害、内部改革の努力と挫折まで、様々な局面を見てきました。

また家庭教育、二世教育を通して、親世代から私の世代、さらには次世代とも交流をもちながら、良い面・悪い面の両方を見てきたつもりです。

その立場から、今の教会の「なぜ?」が分かるように、まずはこれまでの流れを簡単に概観してみたいと思います。

今回まずお伝えしたいことは「統一教会」と「統一運動」は違う、ということです。

統一運動とはーすべては布教のため?

記者の方々から何度か尋ねられました。「教団側は“マスコミ報道に間違いがある”と主張していましたが、信者の方々からみて、それは具体的にどの部分なんでしょう?」

こうした質問に対し、まずご説明したことは「統一教会と統一運動の関係性」についてでした。

多くの報道で解説されている内容は、「統一教会は自らの“布教”のために、政治や経済といったあらゆる分野に手を出した」というものです。

この話から「教会は宣伝や教勢拡大のために政治家を利用しようと政権与党に近づき、その目的達成のために切ったカードが“反共”であって、“勝共連合”は教会の宣教活動の隠れ蓑に過ぎない」という結論につながるのでしょう。

しかし、これは前提からして "大間違い"です。

統一運動とは、宗教、学術、芸術、教育、言論、政治、経済に至るまで、あらゆる分野の活動を通して、「神のもとの一家族世界」、言い換えれば、人種や国籍、宗教を越えた「平和世界」を実現しようという総合的な運動を言います。そして、この運動の志を果たそうとして集まってきた信徒の群れが「統一教会」に他なりません。

すなわち、「統一教会」のために「統一運動」が作り出されたのではなく、「統一運動」を推進するために「統一教会」が存在し、信徒たちが身を粉にして、国と世界のための活動に尽力してきたのです。

68年の設立以降、国内外で展開されてきた勝共運動も、統一教会の影響力を高めるための「手段」などではありませんでした。その目的はひとえに、世界の共産化を防ぎ、自由世界を守るという信念にありました。冷戦の真っ只中において、米国の保守政権を支え続けた新聞社「ワシントンタイムズ」もまた、そうした勝共運動、統一運動の目的のために設立されたものであって、教会の布教や教勢拡大などとはまったく縁遠いものでした。

二世としての小さな誇り

私の世代の二世たちは、幼少期、家庭においては寂しい思いもしていたに違いありません。親たちが教会活動に明け暮れ、世界に出ていき、家を留守にすることが多かったからです。自分の誕生日に親がいない、授業参加日に親の姿が見えない、そうしたことを多く経験してきました。私の家庭も同じです。

しかし、私は幼いながらも、「自分の親たちは神様のため、世界のために闘っているんだ」という、小さな誇りと気概を持っていました。国のため、世界のために生きようとする志やそうした熱い思いを、親の後ろ姿や、当時面倒を見てくださった教会のお兄さん・お姉さんの中に感じていたからだと思います。

当時の信徒たちは皆、「己の救いのため」ではなく、「教会組織のため」などでもなく、「世界の自由と平和のため」に、自らの人生の貴重な時間や私財を投げ打ってきたのです。

「私たちは“我先に天国に入ろう”とする者たちではなく、 “世界のために天国を作って、最後に天国に入ろう”とする者たちなのだ」……、それが、私が幼くして親や草創期の信徒の背中から学んだ統一運動の精神でした。

岸元首相をはじめ、日本の国や未来を思う方々が、統一教会の若い青年たちに好感を抱いたのも、彼らの中に本気で国や世界を思う、純粋な志を見たからであるに違いありません。

失われた本来の精神

私がこれを述べるのは、決して、“今の教会組織”を擁護したいからではありません。二世たちの犠牲や被害を矮小化したいからでもありません。

逆に、この本来の精神を失ってしまっている今の教会に、この運動の「原点」を思い起こして欲しいと思うからです。また、現役の信徒の方々に、今の教会の“異常さ”に気付いて欲しいからです。

多くの人々が、また二世たちが、この運動のために苦労や犠牲を余儀なくされてきました。しかし、神の御旨のため、国と世界のために余技なくされる苦労と、一教団の利益と栄華とプロパガンダのために強いられる犠牲とでは、全く意味が違います!

どうしてそこに、二世たちが誇りや気概を覚えることができるでしょうか。

いえ、たとえ大きな目的のためであったとしても、今の時代は、また本来は、国と世界と同じく、まず大切にすべきが「人」であり、「家庭」であるというのが、私たちの教えであったはずです。

もう一度、今なぜ教会に対するバッシングが起こってきているのかを見つめ直してみてください。「迫害」や「天の試練」という観点ではなく、私たちの本来の教えや精神の原点に立ち返って、現状を冷静に見つめ直してみていただきたいのです。

文総裁はかつてこうした言葉を残しました。

「統一教会が統一教会自体の利益と幸福のために存在しているとするならば、それは必ず滅びるでありましょう。私は、世界の救いの前進のために、私の命と、私の心と、私の魂を与えるために統一教会を設立したのです。ここの聴衆の中にも、統一教会のメンバーがたくさんおります。彼らの大きな願い、彼らの唯一の動機は、ただ他に仕えること、この国と世界を救うことなのであります。」(『人間に対する神の希望』より)

この教会が教会自体の利益と栄華と維持と防衛のために存在するようになってしまったなら、教会の存続する意味がなくなってしまうのではないでしょうか? 日本教会だけを指して述べているのではありません。韓国本部を含む、現教団の在り方について正視していただきたいのです。

本来、「為に生きる運動」を志向していた初期の教会が、どこから、どうして極端な経済組織に変質してしまったのか、次回はその辺りについて触れてみたいと思います。

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