統一教会の信仰問題 統一教会の現状

統一教会の信仰とカルト問題 ~公益的団体か? 反社会的カルトか?[中編]

間が空いてしまいましたが、前編(https://sakurai.blog/archives/607)では“カルト”を巡る諸問題について見てきました。

現代における“カルト”とは、ひとえに「反社会的な団体」を意味し、組織目的のために信者を統制し、無理な活動に駆り立て、家庭破綻や社会問題等を招く団体を指すものに他なりません。

昨年12月、旧・統一教会の問題を巡り、異例の速さで「被害者救済法案」が可決。徹底した「カルト規制」が求められたものの、「信教の自由」等の観点から細部にわたる規制には及ばず、“課題を残す結果となった”と報じられてきました。

「信教の自由」がある以上、カルト問題に対処しようとすれば、どこまでも、当該団体の「信仰・教え」ではなく「行為・行動」を規制する以外にない、というのが一般論でしょう。

しかし、前編で言及したように、「行動」の背後にある「信仰」(=本来的でない信仰)の問題と向き合うことなくして、この問題の根本解決はない―というのが私の思うところです。

統一運動には本来、人の本心(良心)が志向する“普遍的”な原則があり、価値基準がありました。それは一般の倫理・道徳に符号するものであり、あらゆる宗教が根底にもつ共通の価値観に通じるものであって、それが統一運動の「公益的精神」を支え続けてきた源でした。

今や「統一運動」と呼ぶに堪えない現教団を作り上げてしまったのは、そうした本来の教えや信仰などではなく、教団内の“変質した”教えであり信仰観だったのです。

教義の内容を仔細に解説するつもりはありませんが、教団内の“カルト性”(独善性・閉鎖性・排他性…)を生み出す原因となっている信仰観を、次の3つの観点から整理してみたいと思います。

※【後編】としてまとめる予定でしたが、分量が多くなったため、【中編】【後編】に分け、明日【後編】をアップしようと思います。 

【独善性】ビジョンの喪失と変質 ー 平和世界か? 教勢拡大か?

統一運動は「理想世界」実現という大きな夢と志から始まりました。その理想は、初期には「地上天国」と呼ばれ、2000年代以降、「天一国」という宗教的呼称が用いられてきましたが、最も明快な表現は、「神のもとの一家族世界」(One Family under God) であるに違いありません。

それは即ち、共通の親である神のもと、人類が人種や国籍、言語や文化、さらには宗教の枠組みさえも越えて、同じ家族として交わる世界を言います。

※統一運動において「One Family under God」という言葉を、公式的ビジョンとして掲げたのは三男・顯進氏でした。この言葉は、統一運動の目指す世界を、最も的確に言い表していると言えます。

「勝共連合」を設立し、共産主義と対峙してきた理由も、「唯物論的無神論」からでは人間の価値や尊厳性、目に見えない倫理・道徳は保障され得ず、真の平和世界(=One Family under God)は実現し得ないという信念からであって、決して“統一教会”の宣伝のためでも、“反共活動”そのものに目的があった訳でもありません。

数々のビジネスを興し、信徒が身銭を削って献金してきたのも、教団の私服を肥やし、営利を貪るためなどではなく、信徒が家庭を犠牲し、身を粉にしながら活動してきたのも、決して、単なる教勢拡大(=教会の数的規模や影響力の拡大)のためではありませんでした。

その全ては、ひとえに「神のもとの理想世界を築く」という志ゆえだったのです。

カルトと健全な団体を分かつ違いは、第一に、それらが目指すビジョンとゴール(目的)にある、と私は思います。一集団の利益を越え、広く世界のために貢献、寄与しているなら、それは「公益的団体」と称されるべきでしょう。

しかし、残念ながら、教団における「理想世界」「平和世界」という言葉は、いつしか表向きのスローガンに変わり、献金活動や布教活動を進めることこそが“主目的”となっていきました。

全国各地、或いは世界の宣教地において、純真な志を持ち続けている信徒がいることを否定するつもりはありません。しかし、教会本体、教団指導部の関心は、あくまで「教勢拡大」にあり、「組織目的の達成」にあったことは、内部でも挙がっていた指摘であり、良心的な人々が抱いていた危惧でもありました。

統一運動本来の教え、「原理」の骨子を記した書籍(原理講論:以下、講論)の中に、「統一教会」という言葉は一言たりとも出てきません。そうした特定の教団を拡大することが神の目的であるとか、教団の豪華施設を建立することが神の摂理だ、などという理論的根拠は、ひとかけらも見出せないでしょう。

「教会」は理想世界実現のための「手段」であって、「目的」ではなかったのです。

櫻井義秀(さくらい・よしひで)教授が、前述の論文の中で、「教会のカルト化」が団体の肥大化、組織化の中で生じている(=教勢拡大を推し進める権威主義的体制から、信徒への抑圧や搾取といったカルト性が現れる)と指摘しています。

カルト・セクトが本来意味する「宗教の初期形態」というのは、むしろ原始キリスト教に見られるように、純真な信仰をもち、理想に燃え、小規模ながらも家族的な共同体を有する、健全な例が多かったのではないでしょうか? 私は正にそうした姿を、草創期の統一教会の中に見てきました。

宗教団体の問題は、むしろそれらが肥大化・組織化する中で起こってくるに違いありません。

組織内の権益ばかりを求める勢力が広がり、権威主義的体制を築き、本来の理想から離れて、己の組織目的ばかりを追求する―。それはもはや、宗教や信仰という名を語った「集団利己主義」に他なりません。

本来、国益や民族感情を越え、神のもとの恒久平和といった「超越的・普遍的ビジョン」を追求すべき宗教が、その本来の理想やビジョンを失い、自らの「組織」が第一の目的となる時、そこに「独善性」が生まれるのでしょう。

教団内で、数々の信仰や教えが、そうした「組織」の目的と権威を正当化するために“歪曲”されてきた例を見てきました。

私は必ずしも「熱狂的集団」が危険だとは思いません。信仰に燃え、既成概念や常識を越えていく力は、ポジティブな社会変革の原動力にもなり得るでしょう。問題はその目的が「普遍的な理想」にあるのか、「一組織の独善的な目的」にあるのかにかかっているのではないでしょうか?

本来の理想を見失い、自分たちの組織維持や権益拡張が「目的」となるとき、宗教は「普遍的ビジョン」を追いかける熱い集団から「独善的なカルト」に変わってしまうのだと、そう思うのです。

 

組織論的に歪曲された教えの例

■カイン・アベル
アダムの二人の息子の名。兄カイン(神から遠い立場)は弟アベル(より神に近い立場)を通して神に帰る、という教え。教団は「カイン=信徒」「アベル=教会指導者」とし、信徒は「アベル」に従順に従って初めて神につながるものと強調。教団内のヒエラルキーを強化する根拠とされた。本来、その時々において、より神の心情や事情を代弁する側がアベルであって、組織内の位置や立場とは全く無関係だった。

■エバ国家(母の国)
日本は神に祝福された国として、世界に尽くすことで万国から慕われる「母の国」になることを指す。また、アジア・世界に平和をもたらすべく「アダム国家」建設(アベル・カイン=南北に分断された朝鮮半島の平和統一)を共に成す「エバ国家」とされたが、教団は日本が「アダムを堕落させたエバ国」であり、「韓国(アダム)を侵略したことの贖罪」を強調。献金推進の根拠となった。

■先祖解怨  ※講論にはない用語
霊人(祖先)の救いは地上人(子孫)の「善行」によって果たされる、という教えが変容。教団内では「献金」によって先祖が解怨されるとされ、直系7代から各4系統へ、また120代、210代、430代と、本来の教えに何の根拠も見出せない、際限なき献金制度が生まれた。

■万物復帰 ※講論にはない用語
教団内で行われてきた経済活動(物販活動等)を指す。本然の立場を失った人間が「万物」を捧げること(供え物)を通して神に帰る、とされたのが原点。本来は、訪問販売等で拒絶や否定を経験する中、一人一人を訪ねられた神の心情を復帰することを目的とした教育実践であったが、教団内では「サタン側(社会)の経済(万物)を神側(教会)に取り戻すこと」が万物復帰だとされた。

■自己否定 ※講論にはない用語
本来、自分本位な欲望や堕落性(罪の習性:嫉妬・傲慢等)を断ち、本然の自己の確立に向け、今の偽りの自分を果敢に否定し越えていくことを意味したが、教団内では、自分の意見や判断を否定して「アベル」に判断を仰ぐ、といった意味で用いられた。

※その他、「ハムの失敗」「タマルの信仰」等、聖書解説に関する問題は後述。

 

【閉鎖性】価値観の偏重と歪曲ー普遍的原理か? 独自の信仰論か?

統一運動には「創造原理」と「復帰原理」という、二つの原理と価値観が存在していました。

創造原理とは「宇宙の普遍的法則」、言い換えれば、神が創造された「本来の世界と人間の在り方」を説くもので、科学の法則や倫理道徳にも通じる、より「普遍的な価値観」と言えます。

その核心はひとえに「愛」(=真の愛)であり、「為に生きる」というものでした。

一方で、復帰原理とは、人類が本来の在り方から“逸脱”したという観点(=堕落論)を前提とし、失われた世界と人間を“復帰”しよう(=本来の状態に立ち返らせる)としてきた神の歴史的足跡を教えるものです。

堕落論や復帰原理を通して(創造原理が語らない)人間の弱さや脆さ、自らに巣食う罪深さを知り、これを律することを学ぶと共に、そんな人間をもかき抱こうとしてきた神の心情と歴史を学ぶのです。

私自身、こうした復帰原理を学び、信仰を育んできましたが、これはどこまでも「宗教的信条」であり「信仰論」であって、万民に開かれた“普遍的原則”とはなり得ないでしょう。

そもそも復帰原理とは、神が人類の“罪悪史”の中で「救い」の摂理を進めるために通過せざるを得なかった “非本来的”な過程を綴ったもので、そこにはむしろ“普遍化してはならない内容”も多く含まれるのです。

神を信じる者だけを残し他を滅ぼした「ノアの洪水審判」や、我が子を天に捧げよと命じられた「アブラハムのイサク献祭」等を例に挙げるなら、それらは当時求められた“一過性”の摂理であって、そこから学び得る「信仰的教訓」はあるものの、決して、人倫やモラルと呼ばれる「普遍的原則」として一般化できるものではないでしょう。

聖書を見れば、神から特別な使命を担った者が相手を騙し、奪ってでも、その目的を果たそうとしてきた過程もあれば、罪なき者たちが理不尽に打たれ、犠牲となってきた歴史もありました。人類歴史に見る「神の復帰摂理」とは、(本来的ではない)数々の犠牲の上で進められてきた悲哀の歴史であって、決して“繰り返されていいもの”ではないのです。

原理が教える理想世界とは、「創造原理」だけが残る世界であって、それが本来、信徒が学ぶべき信仰観であり、価値観の根幹であるはずでした。

上で、カルトと健全な団体を分かつものは「目的」だと述べましたが、目的さえ良ければ、どんな「手段」や「方法」も許され、正当化される訳ではありません。今の時代、目的を果たすための方法論は、どこまでも創造原理的在り方、「普遍的モラル」に則ったものであるべきでしょう。

私は「復帰原理」という信仰論を自らの信条としてきた者の一人ですが、同時に、“創造原理に根差さない復帰原理”ほどタチの悪いものはない、と思ってきました。言わば、人類が根差すべき普遍的原則、人倫やモラルを無視し、“独自の信仰論”を振りかざす宗教的発想ほど危険なものはない、と思うからです。

「信教の自由」があるとしても、ひと度、その信仰が普遍的原則を離れ、自分たちだけの閉ざされた教理の中だけで物事を発想し、善悪を判断しようものなら、そこに、カルト特有の「閉鎖性」が生み出されるに違いありません。

統一教会で言うなら、「復帰原理」(信仰論)の前に「創造原理」(普遍的原則)がありました。人は「罪人」である前に「神の子女」であって、信仰の有無にかかわらず、共通の親(=神)をもつ「家族」に他なりません。

相手の「罪」を裁く前に、相手の「本心」を信じるべきであって、「信仰」を求める前に「愛」(神の愛)を先立たせるべきでしょう。「愛なき信仰」ほど“非原理的なもの”はないと思うのです。

しかし――、教団はこれまで「復帰原理」ばかりを強調し、乱用してきました。上に挙げた例も、すべて復帰原理の“歪曲”に他なりません。

創造原理が教える理想世界の実現方法は、ひとえに「人格の成熟」「家庭の幸福」「社会への貢献」(平和世界の実現)です。仮に信徒を統制し、家庭生活を破綻させ、社会に被害を与えることを“独自の信仰論”から正当化し、その在り方を続けてしまうなら、それは至極、“閉鎖的団体”とならざるを得ないでしょう。

今の教団が「反社会的団体」であるかどうかは、国や社会が判断すべきことで、私が判断し得ることではありません。ただ、私が言いたいことは、上記のような在り方が、単に社会のルールや常識から外れているという以前に、統一運動本来の信仰や原理から大きく逸脱してしまっている!ということです。

また、このことを、純真に信仰している信徒の方々に気づいていただきたいと思うのです。

※統一運動内の関連団体(勝共連合や女性連合等)は、より「創造原理」を先立てて取り組んできたように思います。それが、周囲から信頼を得てきた理由でもあるのでしょう。しかし、教団本体に広がっていた信仰観は(二世教育の現場を除き)どこまでも「復帰原理」であって、また、それが(組織の目的と事情によって)大きく歪曲された“特殊な信仰観”であったと思っています。

  

★組織論に利用され易い復帰原理の例

■ヤコブの長子権復帰
弟ヤコブ(アベルの立場)が、兄エサウ(カインの立場)に与えられるはずの祝福(=長子の特権)を、父・兄から騙し取る形で“復帰”したエピソード。原理では「長子権復帰」(アベル側に長子の立場を取り戻す)の摂理として解説。(➡誤った一般化:神の摂理のためなら相手から奪し取ってもいい)

■ハムの失敗
箱舟を建造したノアの息子。洪水後、ノアが酔って裸で寝ていたのを不審に思い、兄弟たちに告げたかどで神に諫められた。原理では、ハムが父ノアの信仰を受け継ぐ立場として、父を絶対的に信頼すべきだったと教えている。(➡誤った一般化:常識的に理解できないことでも信じなければならない)

■タマルの信仰 ※講論にはない解説
ヤコブの息子に嫁いだ嫁。夫や義理の父を騙し、命の危機を冒して自らの家系(血統)をつないだ出来事(詳細は割愛)。「神(父)とアダム(夫)を騙し、血統を汚したエバの過ちを清算するもの」とされた。(➡誤った一般化:神の摂理のためなら夫や家族を騙しても良い)

※その他、「原理・非原理」「神側・サタン側」「再臨論」(日帝時代)...etc.

 

【排他性】教祖の神格化と崇拝 ー 神への信仰か? 人間崇拝か?

※【後編】(https://sakurai.blog/archives/717)に続く

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