祝福と合同結婚式 統一教会と宗教二世

統一教会二世の恋愛と結婚 ~人を好きになってはいけない?【後編】

教会内において、思春期の二世たちから寄せられた一番の悩みが「恋愛」であったなら、青年期における一番の悩みは「結婚」でした。

教会では、自ら主催する結婚式のことを「祝福」(祝福結婚)と呼んできましたが、これは成熟した男女が「神の“祝福”のもとに結ばれる結婚」を意味します。

※祝福とは本来(統一教会というより)「統一運動」が宗教の枠を越えて広げていこうとしていた「普遍的な結婚運動・家庭運動」を指しますが、ここでは詳細は省き、「教会の結婚」として表記しておきます。

この「祝福」こそ、統一教会における教義の核心であり、二世自身に至高の幸福をもたらしもすれば、最大の苦悩を招く原因にもなりました。

前回の「恋愛」(純潔)の話題に続き、今回は「結婚」(祝福)をテーマに、統一教会の二世が直面していた現状と課題について述べてみたいと思います。

祝福結婚とマッチング ー 自分で結婚相手を選べない? 

前回述べたように、時が熟するまで、即ち「祝福」を受ける時まで、異性交際を控えて純潔を守り、祝福後は夫婦の契りを結んで貞操を守る―というのが、私たちの純潔観であり貞操観でした。

これはある意味、奇特な心得でしょう。

一方で、世間から見て不可解だったのは―二世にとってもハードルになってきたことは―、恐らく「結婚まで純潔を守る」という考え方よりも、結婚相手の決め方、即ち「マッチング」であったに違いありません。

「自分で結婚相手を決められない(!)」からです。

92年の祝福式(合同結婚式)の報道以来、取り沙汰されてきたように、過去のマッチングは「教祖が相手を決める」というものでした。当時の二世たちも同じです。

なぜ信徒はこれを受け入れていたのか―。

まず正確に言うなら、私たちは「教祖が相手を“決める”」と考えていた訳ではありません。「相対は天が与えてくださる」のであって、その天が備えた相手を、教祖が祈りをもって「見出してくださる」というのが当時の信仰でした。

補足するなら、一時の恋愛感情で結婚相手を決めるのではなく、出会った一人を天から与えられた唯一の人、永遠のパートナーとして信じ、二人で共に真実の愛、永遠の愛を育んでいくことを誓う―というのがマッチング、並びに祝福の捉え方でした。

これが2001年、「各家庭の主体性と責任」が強調される中、二世においては「親」自身が祈りをもって子女の相手を探す、「父母マッチング」という形に変わります。

この変化は当時、大変な混乱をもたらしますが、同時にこれが、親子で向き合う切っ掛けにもなりました。神を信じよ、教祖を信じよ、教会を信じよ、ではなく、「親」が子女から信頼を得なければならなくなったからです。

当然のことながら、親が一方的に相手を決められる訳ではありません。それでは二世たちが端から反発してしまうでしょう。

祈りをもって夫婦が話し合い、親子が話し合い、家庭間で話し合い、最後は当事者同士が話し合い、本人自身が相手を「天から与えられた方」と信じ、受け入れることができて初めて、マッチングが成立するのです。

無論、葛藤や躊躇いを覚える二世たちもいました。時には、親子で口論になったり、負の感情が噴き出したり…。しかし、このプロセスこそ、その間の親子の行き違いや心の溝を埋める大切な教育過程でした。

中には、最後まで親子の一致点が見出せず、祝福に至らないケースもあれば、(後で知ってみると)内心、複雑な思いを伏せたまま、式典に臨んだというケースもありました。

しかし、祝福に臨んだ二世たちの多くが「無理矢理」「嫌々ながら」そこに臨んでいた、という訳ではありません。むしろ、喜んで祝福に臨んだケースが大半だったはずです。

2017年、私がまだ本部で祝福教育・運営の責任を担っていた頃、某テレビ局の取材を受けたことがありました。

彼らは直接、二世の式典会場に足を運び、交流する様子を見守り、参加者にも直接インタビューをしていきましたが、若者の結婚離れが著しい今の時代に、大勢の青年たちが喜んで結婚に臨んでいること、「親が相手を決める」という形に極めて肯定的な青年たちが多いことに、大変、驚いていました。

今や様々な結婚の形があり、親が子供の相手を探す「親婚活」という形もあります。

無論、一つの結婚観や手順が強制されてはならないと思いますが、こうした結婚の在り方そのものが、教団の問題ゆえに白眼視されたり、一方的な偏見に晒されてしまってはならないと、そう思うのです。

祝福を望む二世・拒む二世 ー 二世には結婚の自由がない?

私はここで、現状を肯定するようなことばかりを述べたいとは思いません。

当然のことながら、祝福を望む二世たちもいれば、これを望まない二世たちもいました。親子間で問題が生じ、強制や押し付けが生じたのは、正に親の願いと子の思いとが食い違う時だったのです。

本部では毎月のように、二世青年が祝福に臨むための研修を実施していました。そこには、祝福に期待を寄せ、喜んで参加してくる二世もいれば、明らかに親から押し出されて参加していた二世もいました。

その違いを生むものは何だったのか―。要因は幾つか挙げられますが、最大の要因は、彼らが「親の祝福をどう見つめてきたか」にありました。

「実体」は「言葉」よりもモノを言います。仲睦まじい親夫婦を見て育った二世たちに、高尚なセオリーは不要でした。

祝福とは、相異なる背景をもった二人が出会い、互いを「神様のもう半分」「宇宙のもう半分」だと思って学び合い、補い合い、愛情を育み合って家庭理想を実現していこうとするものです。

真逆に見える両親が互いに補い合い、調和を成している姿を見て育った二世たちは、自然に「自分もこんな夫婦になりたい!」という思いを抱くのです。

中には、「教会は嫌だけど、親のような結婚がしたい」として祝福に来るケースも少なくありませんでした。

一方で、様々な事情から、衝突の絶えない両親の姿を見て育った二世たちの心境は複雑でした。どんなに高邁な理想を聞かされようと、祝福が「希望」や「喜び」には思えなかったからです。

まして、その夫婦喧嘩の要因が教会活動であったり、献金や生活苦の問題であった場合、その負の感情は、理屈で埋め合わせられるようなものではありませんでした。

親自身の夫婦関係や信仰生活をもう一度見つめ直し、それがもたらせた子供たちへの心の傷と真摯に向き合おうとしない限り、解決の糸口を見出すことなどできないでしょう。

ところが、そこで親たちが「是が非でも祝福を受けさせよう!」となった時、また、「祝福以外の結婚は絶対に認めない!」となった時、二世たちには、「親の願いをとって自分の気持ちを押し殺す」か、「自分の意思を貫くために親との関係を断絶する」かの二者択一が求められるのです。

それはどれほど苦しいことでしょうか…。自分の意思を抑え込んで祝福結婚に臨むことも、親に喜んでもらえないと分かりながら一般結婚に進むことも、どちらも過酷な選択に他なりません。

その状況にあって、私にできることは、ただ、祝福の目指す本来の理想を伝え、現状を越えていけるよう、二世たちを勇気づけることであり、同時に父母の方々に二世たちの思いを汲み取ってもらえるよう、強く呼びかけることでした。

二世たちが自らの意思なく、苦しい思いで祝福に進んで欲しくなどなかったからです。また、二世の本音を分からないまま押し出すようなことを、親たちにして欲しくもなかったからです。

教義において、祝福とは(神の普遍的な願いであると同時に)「救い」を意味していました。しかし、断絶した親子にとっては、今々の祝福に臨めるかどうか、ということよりも、親子で本音で「向き合うこと」のほうが大事であったに違いありません。

親子間に深い溝と傷を残したまま、「救い」も「天国」もないと思うからです。

二世の一般結婚と“脱線” ー “堕落”したら一生呪われる?

前述したように、人類始祖アダム・イブは「成熟した愛」(真の愛:利他的な愛)ならぬ、「未熟な愛」(偽りの愛:利己的な愛)を結実させることで神のもとを離れた―、言い換えれば、「愛の過ちが罪の始まりとなった」というのが原理の解釈でした。

男女の愛が最も美しくあると同時に、最もエゴイスチックにもなり得たのも、その愛の出発点が「真の愛」(神の愛)ならぬ「偽りの愛」であったからに他なりません。

個々人の確執から国家間の戦争に至るまで、全ての根本原因となってきた人間のエゴの始まりは、実は「男女の愛」であって、対立の最後の火種は結局、愛と結婚、家庭の問題に行き着くのだ、とそう見ているのです。

そのため、最も自分本位になりやすい結婚―罪の始まりとなった男女の出会い―において、自らの願望や欲求を越え、相手のために生きる動機をもって男女が出会い、真実の愛を育むことを通して天国を出発しよう―というのが祝福の内的意義でした。

また、そうした祝福を通して、人類をがんじ絡めにしてきたエゴや愛慾、歴史的罪の縄目から解放される(=救われる)と信じたのです。

だからこそ、逆に、祝福以外の形で結婚したり、性関係を結んだりすること―堕落または脱線と呼ばれた行為―は、信徒にとっては、罪の歴史を再び繰り返すことを意味していました。

特に二世は、罪の愛ではない神の愛から生まれた生命であり、神の愛から出発した血統(後世へと続く命のつながり)を受け継ぐ立場とされたため、「脱線」とは即ち、その貴い血統を「汚してしまうもの」と考えられたのです。

この信仰ゆえに、親は必死で子を祝福に導こうと―或いは、それ以外の結婚をさせまいと―してきたのです。私自身、その親の思いと二世の思いとの狭間に立たされたことが幾度となくありました。

気が狂わんばかりに取り乱し、子の交際関係を力づくで引き剥がそうとする親もいれば、子どもの交際・結婚を理由に、子どもとの絶縁を決め込む親もいました。

元々、異性に愛情を求める二世たちというのは、多くが愛情にとても敏感で、家庭の中で寂しい思いをしていた二世たちでした。親が子供たちの気持ちを受け止めてやれなければ、彼らは自らの満たされない思いを埋め合わせてくれる誰かを「外の世界」に求めざるを得ないでしょう。

信じるものが違おうが、価値観が違おうが、親子が親子でなくなる訳ではありません。私も信仰をもつ者の一人として、親御さんたちの切実な思いは痛いほど分かります。しかし、それでも、こうしたケースに対して伝えてきたことは、一貫して、「親子の関係を断ち切るようなことはしないでください」ということでした。

もともと、私たちの信じる、原理が教える「神様」という存在は、ご自分のもとを離れた人類を、子女たちを、片時も忘れることなく、愛することを、信じることをやめることなく待ち続けた「親」なる存在でした。

それを思う時、遠回りをすることがあっても、何歩後退することがあっても、そこから親子で向き合っていくこと、寄り添っていくことが大事だと思うのです。

もう信仰を辞めている、“卒業”している、いったん“お休み”している二世たちにとっては、こうした話自体がナンセンスな話であるに違いありません。

ただ、もし、教会を辞めたにもかかわらず、信仰を捨てたと思っているにもかかわらず、心の中に、「自分は罪を犯した」「天から呪われるんじゃないか」「神様も信仰も捨てたのだから地獄に落ちるに違いない」…、そんな恐れを抱いている二世たちがいるなら、伝えたいです。

原理が教える神の本質は「愛」であって、人間創造の動機も、救いの歴史が始まった原因も、全ては「愛」にありました。

私たちの犯した罪がどれほど大きなものであったとしても、それで「愛すること」を止めてしまうほど、神の愛は薄っぺらなものではありません。

たとえ「あなた」が神様を捨てたとしても、神様は「あなた」を捨てない―。それが、原理の教える神様という存在なのだ、ということだけは、忘れないでいただきたいと思います。

※本部で講師を務めた十数年間、祝福の捉え方を「罪や堕落」からではなく、「神の愛と理想」から捉えられるよう、私自身、教会内の既成概念を変える努力をしてきましたが、その観点は当時、私たち二世教育者が三男・顯進氏から学んだものでした。祝福結婚という価値観は今後、「教派・宗派」の枠を超え、もっと本来的で、希望的で、普遍的なものに変わっていかなければならないと思っています。この辺り、またどこか別の記事で触れたいと思います。

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