統一教会と宗教二世

統一教会二世の恋愛と結婚 ~人を好きになってはいけない?【前編】

昨年の事件を機に、教会内で困難な思いをしてきた二世たちの声が世に知れ渡るようになりました。そのうち、彼らが最も苦しんできたとされるのが「恋愛と結婚の問題」(=いわゆる「恋愛禁止」)です。

一般的に見れば、「え? 恋愛の何が問題?」となりそうですが、実際、教会内ではこの問題が、親子関係に不和をもたらす大きな要因であり、私が二世教育(家庭教育)を担当しながら最も多く受けてきた相談でした。

正直、この問題の原因は、親と教会の「行き過ぎた指導」にあったと言わざるを得ません。が、それは「教義の問題」というより、教義に対する教会内の理解と指導の“未熟さ”がもたらしたものだと、私は思っています。

二世教育の現場で格闘しながら、私自身、気付かされ、学ばされたことが多々ありました。

また、それを踏まえて「恋愛と結婚」に関する講座を始め、これを書き下ろして書籍化する等、二世たちに「より健全で本来的な愛と性の指導」が行われるよう、努力してきたつもりでした。

それは現場の教育者も同様だったと思いますが、結果から見る時…、全く不十分だったのだろうと思います。

全てを記すことはできませんが、ここでは、そもそもなぜ教会内で恋愛がタブー視されてきたのか、また何が本来の教えであり、二世たちがどこに苦悩してきたのかを、簡潔に整理してみたいと思います。

 

恋愛禁止(?)の理由 ー 恋愛したら地獄に落ちる!?

今やネットで「統一教会 恋愛」と検索するだけで、多くの記事が並ぶようになりました。

「統一教会2世、自由恋愛は最大の禁忌...」(日テレニュース)
「旧統一教会・宗教2世、恋愛したら地獄に...」(NHK政治マガジン)
「今でもトラウマに、旧統一教会の恋愛に関する教え...」(ABEMA TIMES)

「なぜ恋愛しちゃいけないの?」という質問に、親から「地獄に落ちるからよ」と言われた―。こうした話は、私自身、二世たちから何度か聞かされました。(汗)

無論、親たちから言わせれば、「もう少し丁寧な説明をしたはず…」となるのですが、彼らが求めていた回答ではなかったのでしょう。

「ダメとしか言われなかった」「ちゃんとした説明が欲しかった」「せめて質問させて欲しかった」…、それが二世たちの声でした。

愛と性に関して親に相談できなかったことから、長年、異性に恋心を抱いただけで罪意識を覚えていた、という二世もいれば、性欲に駆られる自分がおかしいんじゃないか…と自己嫌悪に陥っていた男子たちもいました。

結論から言えば、教会の教義にあたる「統一原理」(以下、原理)の教えは、「異性に惹かれること」「性欲を覚えること」をタブー視などしていません。逆に、男女が惹かれ合うのは、“神”がそう創られたからであって、男女は一つに結ばれて初めて「神の似姿」になる、というのが原理の教えです。

言わば、男女を一つに固く結びつける、天が与えた貴い性稟が「愛」であり「性」であって、むしろ男女の結合こそ天国(理想世界)の出発点だと、そう教えているのです。

では、なぜその男女の愛(恋愛やセックス)に対して警鐘を鳴らすのか―。それは、その愛が「天国の出発点」であると同時に、「罪の出発点」となったと見ているからなのです。

聖書は罪の起源を人類始祖アダム・イブの物語(失楽園)として記していますが、神が園の中央に置かれた禁断の果実―、「取って食べたら死ぬだろう」と言われたのにもかかわらず彼らが欲した魅惑的な果実とは、即ち「男女の愛」だった!!というのが原理の解釈です。

実際、人が渇望し憧れを抱く、最も美しいものが男女の愛に違いありません。しかし同時に、最も自分本位で利己的になり得るもの―それを得たいためが人を蹴落とし、周囲を不幸にし、相手まで束縛しかねないものがまた男女の愛なのではないでしょうか?

言い換えれば、男女の愛とは「諸刃の剣」であって、成熟すれば、互いを幸福にする愛(=甘い果実)にもなり得ますが、未熟な状態で“取って食べた”なら人生を殺めてしまうほど脆く、危険なものだという訳です。

したがって、「愛の未成熟期(成長期)においては男女間の愛と性に手を出さない」というのが、原理に基づく本来の教えでした。

※「恋愛禁止」と言うと、異性に対する自然な情緒まで否定してしまうニュアンスとなるため、私はそうした表現を用いたことがありませんでした。未成熟期の「異性交際」を慎み、「婚前交渉」(性交)をしないというのが、より正確な表現かと思います。

 

成長期の異性関係 ー 異性とは口を利いてもいけない?

十代の望まない妊娠や中絶、性感染症の問題等を鑑みるとき、「未成熟期における男女関係(=性関係)は控えよう」という話は、極めて健全な話かと思います。

ただ、「異性交際そのものを控える」のは行き過ぎ…というのが一般的な感覚でしょう。

若い二世たちが葛藤していたのも「セックスができないこと」などではなく、「交際ができないこと(!!)」でした。また、(自分だけ)「彼氏・彼女がいないこと」であり、周りの“恋バナ”に取り残されてしまうことでした。

かつて、ある二世が言いました。「異性と付き合うな、って二世部は体育会系の部活っスか? 男女付き合いだって、してみたほうが愛も成長すると思うんスけど。」

ある意味、これは正論でしょう。「愛の成長」には、確かに異性間の交流が不可欠だからです。

この辺り、実は親たちの側にこそ、ある種の“誤解”がありました。「異性交際をしない」というのは「異性と一切関わらない」という話ではありません(!!)

実際、「異性とは口を利くな、視線も合わせるな」では、人格形成に支障をきたしますし、将来、夫婦愛を育む上でも弊害となってしまうでしょう。(過去、確かにこうした極端な指導をする親たちもいました…。汗)

原理では、愛の成長過程として、「子女の愛」「兄弟姉妹の愛」(=友愛)を経て、初めて「夫婦の愛」(=本来の男女愛)「父母の愛」へ至ると説明していますが、夫婦愛の土台として育むべき兄弟愛には「異性の兄妹愛」も含まれるのです。

では、どこまでが「兄妹愛(友愛)」(=成長期に育むべき)で、どこからが「男女愛」(=成長期は控えるべき)になるのでしょうか。分かり易く言うなら、違いは「開かれた関係」か「閉ざされた関係」かにあります。

男女の愛とは「一対一の愛」であって、良くも悪くも、互いを“独占”することを欲し、「閉ざされた関係」を求めるでしょう。胎内の卵子がたった一つの精子だけを受け入れ、他をシャットアウトするのと同じです。

そのため、開かれた友人関係の中に恋愛感情―言わば未成熟な男女愛―が芽生えた場合、その“排他的”な感情が友人関係を壊し、グループを引き裂いてしまう場合もあるでしょう。

また、「未成熟な愛」(自分本位な愛)で結ばれた男女自身、いずれその「閉ざされた関係」に閉塞感を覚え始めるに違いありません。未成熟な愛情は、どこかで要求と束縛に変わるからです。

閉ざされた関係で長続きし得るのは、二人をつなぐ愛が「成熟した愛」(利他的な愛)である場合に限られるでしょう。

要するに―。成長期にあって、私たちが推奨したいのは「愛を一人に向けること」(=異性交際)ではありません。「愛の器を広げること」(=豊かな交友関係)です。

実際、彼氏・彼女を複数作ってきた人よりも、誰とでも(同性・異性を問わず)親しい交友関係を築いてきた人のほうが、より安定した人格を備え得るのではないでしょうか?

成長期の二世たちに必要となる指導は、「恋愛するな」「交際するな」ではありません。異性を異性として意識する代わりに、一人の人として、友人として、兄弟姉妹として対そう、というものです。

ある意味、二世同士の異性関係が心地良かったのは、互いを男女である前に「兄弟姉妹」として見つめ、仮に淡い恋心を抱いたとしても、その思いを大事に胸の内にしまい、自分本位な関係を求めようとしない―そのことで変わらない関係でいられる―、そんな信頼感・安心感があったからだと思うのです。

 

純潔を守る意義と価値 ー 性は汚れたサタンの道具?

教会内の教育は長らく、「ビジョン(理想)」からではなく「現状(問題)」から語られてきました。要するに、「理想を目指そう!!」(~しよう)ではなく、「問題を起こしてはいけない!!」(~するな)といった指導です。

※三男・顯進氏がこれを一転させ、ビジョン型の教育が始まっていくのは2000年代以降ですが、教会内の体質は簡単には変わらなかったように思います。

「天国の素晴らしさ」よりも「地獄の恐ろしさ」ばかりを教え育てた場合、それが子女教育にどれ程の歪みをもたらすかは想像に難くないでしょう。

恋愛したら地獄に落ちる―というのも、その端的な例ですが、それは「性」についても同様でした。

昨今、ネット上には、「純潔という価値観を押し付けられた」「テレビや漫画(性情報)は堕落世界のサタンの道具と教えられた」「性交渉(婚前交渉)は殺人以上の罪だと脅された」といった二世たちの声が紹介されていますが、これらは教会が行ってきた教育の結果という以上に、教会が本来の教育を“怠ってきた”ことの結果に他なりません。

そもそも、原理の観点で言うなら、純潔を守るのは「地獄に落ちないため」でもなければ、「性が汚れたものだから」でもありません。或いは、単に「性病にかからないため」でも、「自分が不利益を被らないため」でもありません。

私たちが純潔を守ろうとするのは、将来出会う「相手」のためであり、二人から生まれてくる「未来の命」のためです。互いのために自らの心身を清く保とう―というのですから、それは極めて健全な考え方ではないでしょうか?

過去において、「純潔」とは、女性だけに押し付けられてきた徳目であり、家父長制の名残のような印象を帯びてきました。私たちもその価値観には反対です。なぜ女性だけが純潔を守るべきなのでしょうか? 

それは、むしろ男性たちにこそ求められるモラルであるに違いありません。

無責任な性行動で、望まない妊娠・中絶を余儀なくされる女性たちがいたのは、彼女たちに「セーフセックス」を教えてこなかったからという以前に、男性たちに、女性たちへの配慮や性モラルを教えて来れなかったからではないでしょうか?

私は性の早期教育そのものに反対はしませんが(無論、年齢と内容にもよりますが…汗)、セックスを教える以前に、愛情や思いやり、家庭的責任や性モラルをベースとした「心の教育」を行うことが先決課題だと思うのです。

また、私たちの掲げている純潔教育とは、性を「恥ずべきもの」であるかのように捉える、過去の純潔教育とも異なります。

「性行為」は本来、成熟した男女が神のもとで交わす「神聖な愛の契り」を意味し、「性器」は神の愛が結実し、新たな生命が宿る「神の至聖所」(=神の臨在する聖域)だと教えているからです。

古き純潔教育は、「性は恥ずべきものだから隠せ」と教え、急進的な性教育では「性は素晴らしいものなのだからオープンにせよ」と促しますが、私たちの主張はそのどちらでもありません。「性は最も貴いものなのだから大切に守ろう」と、そう考えるのです。

実際、将来の相手のために純潔を守る―、そんな価値観に心底あこがれ、半生、純潔を守りながら結婚に備える二世たちも少なくありません。

本来、こうしたポジティブな愛と性の指導が、もっと隅々まで行き渡っているべきでした。

誰かを好きになったり、性欲に駆られたり、不安や寂しさから投げやりな恋愛関係に陥ってしまったような時に、「サタン」だとか「堕落」だとか「地獄に落ちる」とかではなく、もっとその悩みに寄り添ってあげながら、本然の愛や性について親子で向き合い、語り合う場がもてたなら、思春期の二世たちの様々な苦悩をもっと汲み取ってあげられたのではないか、と、そう思えてなりません。

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