前編(https://sakurai.blog/archives/471)では、統一教会二世の訴えに始まる「宗教虐待」というテーマについて、まずは一般論から「教育(しつけ)と虐待の違い」について見てきました。
ここからは特に「信仰教育」ということに特化しながら、本来の教育とそれが二世への「信仰の強要」(子どもへの抑圧・信教の自由の侵害)につながり易い課題とその要因について、私自身が統一教会内で見てきた内容と合わせて見て行きたいと思います。
幼少期の信仰と教育 ー 愛情が先か? 信仰が先か?
「三つ子の魂百まで」と言われるように、どの育児書でも、教育に最も大切な時期は「幼少期」だとされています。それは信仰教育も同じでしょう。
挨拶すること、こぼさず食べること、歯を磨くこと、順番を待つこと、暴力を振るわないこと、間違ったことをしたら謝ること…。
そうした幼少期の習慣づけ(しつけ)が子どもの人格形成の基礎となるように、神様に挨拶すること、良いことがあったら感謝すること、悪いことをしたら(人が見ている・見ていないにかかわらず)悔い改めること―といった幼少期の習慣づけが信仰の基礎を育む訳です。
心の教育も「形」から入ることが多いように、また武道の精神を究めるにも「型」から入るように、信仰教育においても、祈りや礼典、礼拝といった「型」を学ぶことが重要だと言われています。
言わば、この時期の子どもたちは、信仰があるから信仰生活をするのではなく、信仰生活を通して信仰を学ぶのです。
その最初の習慣づけには、ある種の強制力が伴うかもしれませんが、それを「強要・押しつけ」と言ってしまっては、あらゆる「しつけ」ができなくなってしまうでしょう。
ただし―。統一教会本来の教え(原理)には明確な教育論があり、教育の順序がありました。それは「心情教育」「規範教育」、そして各種「知識・技能教育」という順序です。
上述した規範教育(しつけ)は、あらゆる知識教育に優先されるべきものですが、その前に求められるものが「心情教育」(情操教育)であるはずでした。
一般の子育て同様、信仰教育においても、親たちは決まって「形」から入りたがり、それができていれば「いい子」だと考えます。要するに、お祈りしているかどうか、教会に通っているかどうか、信仰的教えに素直に従っているかどうかといった「行動」をもって評価し、往々にして子どもの「心」を見落としてしまうのです。
結論だけ言うなら、幼少期の信仰教育に最も大切なことは、見えないもの(神仏)への感性を育むことであり、私たちで言えば、「神様への心情を育む」こと、即ち「神様は私を愛しているんだ!」という感性や情緒を育むことです。
※原理の教えでは、神と人とは親子の関係であり、それは「信仰」ではなく「愛」で結ばれる関係だと捉えています。そのため、教育の根本は(特に親子関係を通して神の愛を学ぶ)「心情教育」にあり、それが子どもの自尊感情を育み、人間関係の基礎になると考えています。
「神を信じること」の前に、「神が(私を)愛していること」を学ぶほうが大事であって、そうした情緒を育めないまま、形だけの信仰生活を課せられては、それこそ、後々振り返った時、「信仰を強要された! 信教の自由が奪われた!」となるに違いありません。
形だけ見れば、同じく教会に通っているように見えても、ある二世たちにとっては、神様は「私を愛で包み込むような存在」であって、神様という言葉を聞くと、自然に温かい気持ちになるといいます。
しかし、ある二世にとって、神様は「審判主」であり「裁判官」であって、従わない者を地獄に突き落とす存在であり、神様という響きに恐怖や嫌悪感を抱くのです。そしてー、こうした思いを抱く二世たちも少なくはありませんでした。
それはきっと、彼らに伝えるべき一番大切な部分を伝え忘れてしまったからに違いありません。
原理の教えに倣うなら、信仰教育の根本は幼少期における(規範教育の前の)心情教育にあります。これを欠いてしまったことが、二世たちに「信仰強要」と感じさせてしまった要因であろうと思います。
無論、教会に通う大半の家庭がそうだった、などとは思いません。ただ、こうした教育問題は、教会が親たち(信徒たち)に対し、「神の愛」というものを伝える以上に、行動や実績、結果を求め続けてきてしまったことと無関係ではないように思うのです。
思春期の信仰と教育 ー 反抗・反発は不信仰なのか?
「子の思春期は親の思春期」と言われるように、親たちにとって最も悩ましい時期が子どもの思春期でしょう。
それは「幼虫」(子供)でもなければ、「成虫」(大人)でもない、傍目からは分からなくとも、内側では「激しい変化」が起こっている「さなぎの時代」なのです。
世話を焼けば、「干渉するな~」となり、放っておくと、「俺に関心ないのか~」となる―。本人自身、自らの内側の変化に追いつかないのでしょう。
それも、子どもから大人へのステップであって、本質は「反抗期」ではなく「自立期」なのです。そして、親からの自立は、決まって「同世代とのつながり」という形で現れるでしょう。これは信仰教育でも同じです。
徐々に、親の信仰生活に“付き合うこと”を辞め、同世代が価値視することを追求するようになります。教会(二世部)に憧れの先輩がいれば、親よりも先輩の信仰スタイルを真似るようになるでしょう。
家庭内の「習慣性」よりも、同世代の「集団性」の中で信仰を育む時期なのです。
しかし、さらに成長が進むと、習慣性でも集団性でも満足できなくなり、「自分はなぜ信仰するのか」といった、信仰の「探求」が始まって行きます。
これまで信じてきたものに疑いの目を向け、信仰を全否定するようになる場合もあるでしょう。この時、親たちは慌てふためいて、こう思うのです。「学校の影響だ」「交友関係が問題だ」「二世部のせいだ」…。
極端な場合、「子どもに悪霊が入った!」として、子どもの“不信仰”を抑え込もうとする親もいました。しかし、疑問を抱いたり、批判的意見をもつことが“不信仰”なことなのでしょうか?
教育の目的は「子の自立」にあります。信仰教育の目的も「信仰の自立」にあるのです。
父母が出会った神様と、子女が出会う神様とは、同じ神様ではあっても、出会い方や気付き方、実感・感動する側面はみな違うはずです。
その違いを親が認めず、癖や歪みのある「自己の信仰スタイル」を押し付けようものなら、それは二世の信仰自立にとって、むしろ「障害」となってしまうでしょう。親は子を「神との出会い」に導くのが務めであって、子どもと神との間に“立ちはだかる”ことではないのです。
私自身、この時期の二世たちから数々の批判的意見や疑問・質問を受けてきましたが、その時、私は必ずしも「正しい答え」を出す必要などないのです。彼らの意見を尊重し、一緒に答えを探求するほうが、よっぽど彼らの自立につながるでしょう。
二世の信仰相続とは、親の信仰に従属することではありません。それは彼ら自身の「主体的信仰」を育むことであって、むしろ「親の信仰からの自立」なのです。そこに「子どもの信教の自由」もあるのでしょう。
批判も、反発も、失敗も、挫折も、親の目から見る“不信仰”も、全ては信仰自立のためのプロセスに違いありません。
もし親が、そうした二世自身の「探求」を許さず、自分の信仰スタイルを押し付けてしまうなら、それも一つの「暴力」となってしまうでしょう。
二世たちの信仰自立に伴う反発や抵抗を「不信仰」として抑え込もうとしてしまったこと―、それが二世たちには信仰強要と感じられてしまったに違いありません。
そしてまた、そうした自発的な発想や全体方針にそぐわない意見や行動を「不信仰」として抑え込んでしまうような文化が、教会内に根強く存在していたことも、多分に影響していたのだろうと思うのです。
親の役割と責任 ー 愛すること、範を示すこと、信じて待つこと
二世教育を始めた当初、私は一人の先輩、兄のような立場で教育に携わりました。しかし、私自身が人の子の親となり、親を経験しながら、改めて教育の難しさを実感するようになりました。
子どもは親の思い通りにはなりません。いえ、本気で子どもに願う世界があるなら、親自身、本気で子どもと向き合う他ありません。
愛するとは「投入すること」であって、それこそ、教育には「本気の投入」が求められます。時間も、思いも、労力も、経済をも投入する必要があるのでしょう。
それを思う時、私自身、二世教育に深く携わりながらも、親として、子どもたちにどれだけ投入して来れただろうか、と、振り返れば反省しかありません。
しかし、後悔する前にやるべきことがあり、子どもに思いをぶつけたり、信仰を押し付ける前に、果たすべき親の務めがあり、埋め合わせるべき役割があると思うのです。
この辺り、信徒の方々にも、共に考えていただきたく思います。親が果たすべき役割と責任とは何でしょうか?
家庭事情は千差万別で、教育に正解などないのかもしれませんが、「原理」の教えから考える時、親の役割とは「愛すること(=投入すること)」であり、「範を示すこと」であり、「信じて待つこと」だと思うのです。
神はあらん限りの力を尽くして、人とその成長に必要なあらゆる環境を創造されました。水を与え、光を与え、生きるべき原則と方向を示しつつ、最後は人が自らの力で成長していくのを待ったのです。
※生きるべき原則: 体は自然法則にしたがって成長・成熟し、心もまた、倫理・道徳等の普遍的原則を志向しつつ成長・成熟するように創られた―ということ
言わば、人間(子女)に与えられた「成長期間」とは、神(親)の立場から見れば「愛を投入する期間」に他なりません。
種が芽を出すにも、良き土壌が必要であり、水も光も必要であり、小まめな手入れが必要でしょう。仮にこれまでそうした「投入」をして来れなかった事情があるなら、今からでも、そうした投入が必要なのだと思います。
実際、教会活動に奔走し、数十年にわたって歪(ひずみ)ができてしまった親子関係を、数年間、ひたすら子どもの話を聞き、子どもの事情に寄り添い、心を尽くながら修復していった、という家庭の実例を私は知っています。
また、子供たちは、親の語る「言葉」ではなく、親が示した「行動」に倣い、「生き様」から学ぶと言われます。子どもをコントロールすることなどできませんが、親自身が「範を示すこと」はできると思うのです。
仮に今、子どもたちが信仰に背を向けているとしたら、それは私たち親自身の生き方が成熟していなかったからなのかもしれません。逆に言えば、子どもたちは、私たちが成長した分だけ、信仰に近づくのではないでしょうか?
そして、最後に必要なことは「信じて待つこと」です。
上述したように、人間(子女)に与えられた成長期間とは、神(親)の立場から見るなら、「愛を投入する期間」であったと同時に、その成長を「ただ信じて待つ期間」でした。
神は人間に自由と責任とを与え、彼ら自身がその責任を果たすことを信じて待ちました。人がその自由と責任でもって罪を犯し、過ちを繰り返し、神を不信するに至っても、それでも神はその責任を、人から奪い取ろうとはしませんでした。ただひたすら、人を信じて待ったのです。
恐らく、自分が成長・成功することよりも、子どもの成長・成功を見守ることのほうが難しいことなのかもしれません。親は幾度も、子どもの人生のハンドルを代わって取ってしまいたい衝動にも駆られることでしょう。しかし、神でさえも、人からその責任を奪い取ろうとはしなかったのです。
「親」という漢字は、「木の上に立って見守る」と書きます。「見守ること」「待つこと」も、「愛すること」「範を示すこと」と同様、親としての大切な務めなのでしょう。
子どもが自ら人生のハンドルを握り、自らの足で歩んでいくことを喜び、支え、励まし、見守っていくこと―、それが天から与えられた「親」の務めだと思うのです。
さいごに
教会全体を見渡すなら、子どもたちを立派に育てている良心的な家庭も多くいます。頭の下がるような人格的な親御さんたちも数多く見てきました。
統一教会の家庭が皆、二世たちを虐げているような印象をもたれてしまうとすれば、それは事実と違っていると言いたいです。
ただしー、信仰の強要に苦しんできた二世たちがいるのも確かな事実であり、それを皆、「特殊な二世」であるかのように捉え、顔を背けて欲しくはありません。
また、そうした二世の課題が、単にその家庭の「親たち」の問題だったと言うには、親たち(信徒たちの家庭)が置かれていた状況はあまりに過酷でした…。
教会本来の教え、「原理の教え」に問題があったとは思いません。しかし「教会の教え」、現場での信徒指導には、原理的でないもの、本質的ではないものが数多く混在していたのを見てきました。
また、親が家庭と向き合い、子どもたちと向き合い、そのために時間と思いと労力と経済とを投入できるような「ゆとり」を奪ってしまっていたことは、教会として深く反省すべきことだったと思うのです。
精神的、経済的に厳しい状況に置かれている家庭にとっては、上に記した教育論等も、冷たい正論にしか聞こえないかもしれません。
でも、せめてこれ以上、二世たちの苦悩や犠牲が増えることがないよう、親子の間柄が「信仰」を理由として決裂することがないよう、心の片隅に留めていただければと思います。
後編ポイント
・信仰教育の目的は「信仰の自立」にあり、思春期・自立期の子の反発や抵抗を抑え込もうとすることが「信仰の強要」につながる。
・親の役割とは「投入すること」「範を示すこと」「信じて待つこと」であって、決して子どもたちから人生のハンドルを奪ってはいけない。
・家庭問題には教会の責任もあった。信仰強要に苦しむ二世がいる事実を忘れず、これ以上の苦悩や犠牲が生じないことを願いたい。