二世局の発足 — 二世によって始まった二世教育
二世たちの居場所 — 全国二世部の整備
二世教育の展望 — 新たな改革運動の始まり
※上記(https://sakurai.blog/archives/372)は前編の小題目。下記がその続きになります。
二世が教会に通う理由・教会を離れる理由
主に中高生期までの教育を担当していた二世局はその後、青年までを対象とする「成和局」(05年~)に変わり、さらに父母教育までも含む「家庭教育局」(09年~)へと拡がっていきました。
現場の二世部も「成和子女部」(小学生部)、「成和学生部」(中高生部)、「成和青年部」として定着し、各々担当が立って二世たちの教育及びケアに当たることとなりました。(便宜上、ここではまとめて「二世部」と表記)
さて、二世が教会に通う理由、そして離れる理由は何か―。当然のことながら、年代に応じて状況は異なります。
私が在籍していた5年前の状況で言うなら、小学生期の二世の在籍率(半年1回以上の礼拝参加率)は70%強。この時期の子供たちが教会に通う理由は、ひとえに「親」ゆえです。
障害や不登校等の理由で教会に通わなくなるケースもありますが、一番の要因は「親の意識」に他なりません。
これが中高生期になると、在籍率は約60%に。学業や部活もその要因として挙げられますが、この時期の二世たちが教会に通う理由は、ひとえに「仲間の存在」ゆえです。
親とどんなに良好な関係を結べているとしても、「同世代とのつながり」がなければ、二世たちは教会に残りませんし、逆に親子関係に課題があったとしても、二世同士のつながりが彼らにとってのセーフティーネットになるのです。
さらに、青年期(高卒)になると在籍率は40%強に。社会生活が長くなるほど在籍率は落ち込み、30歳頃には30%以下になります。この時期は、親との関係が良好だったとしても、二世同士のつながりがあったとしても、教会にはつながらなくなるのです。
その理由は何でしょうか? それは正に、「教団(教会組織)の実態」が見えてくるからです。
二世部に所属している間、二世たちには教団の実態は見えません。「教会=二世コミュニティ」なのです。
ところが、一般礼拝に通うようになったり、社会から客観的に教会を見つめるようになることで、その文化の歪みや異常さに気付かされ、理想と現実のギャップ、「言っていること」と「やっていること」の違いが見えてくるのです。
二世たちは言います。「うちの教会は良いことを言うけれど、行動が伴ってない」「社会に益(プラス)となる活動もあるが、害(マイナス)の方が多いように思う」「健全な団体かどうかはお金の流れ(入口と出口)で分かる。そこから見ると、うちは健全な団体ではない」……etc.
教会から得た価値観や二世同士のつながりは大事にしたい、でも教団(教会組織)とは関わりたくない―。それが、私の見てきた二世たちの大半の感覚でした。
痛みを知る二世・痛みを知らない二世
二世は皆、様々な困難を経験し、葛藤を越えてきたに違いありません。しかし、二世の置かれた状況は千差万別であって、皆、同じレベルの痛みを経験してきた訳ではありませんでした。
大別するなら、二世には3つのカテゴリーがあったと言えます。
- マッチング家庭の二世(祝福二世)
第一に、両親が祝福結婚を通してマッチングされ、その後、生まれた二世の立場です。両親が祝福を受けた後に授かった子女を、教会では「祝福二世」と呼んでいました。基本的には、両親共に信仰をもっているケースと言えます。
- 既成家庭の二世(信仰二世・祝福二世)
第二に、両親が一般結婚をした後に祝福を受けた家庭(=既成家庭)の二世です。多くは妻が先に入信し、夫が後に賛同(承諾)して祝福結婚に臨んだケースで、祝福前に授かった子女は「信仰二世」と呼ばれています。(既成家庭の場合、上の子が信仰二世、下の子が祝福二世というケースもある)
- 壮婦の家庭の二世(信仰二世)
第三に、妻だけで信仰している立場(壮婦:壮年婦人の略)を親にもつ二世です。夫が賛同し、夫婦で祝福を受ければ「既成家庭」となりますが、夫が妻の信仰に賛同していない、または反対している場合も少なくありませんでした。
以上3つの立場のうち、最も困難な環境に置かれていたのは壮婦の家庭であり、その二世たちだったと言えます。(山上家庭もこの立場に該当)
皮肉な現状ですが、献金活動において、より多くの犠牲を払ってきたのは、マッチング家庭や既成家庭よりも壮婦の方々でした。
過剰な献金が求められた時、夫婦で信仰していたなら、一方(主に夫側)が冷静に判断し、「歯止め」をかけるケースもあると言います。が、孤軍奮闘している壮婦の場合、逆に「自分が信仰を立てなければ…」という思いから無理をしてしまう(或いは教会側が無理をさせてしまう)のでしょう。
そうした献金問題から夫婦間、親子間に不和が生じるケースもあり、それが二世たちの現実を直撃するのです。
もしそれでも、その二世たちが二世部に通っていたなら、同世代とのつながりが彼らの痛みを和らげてくれたり、彼らの苦悩を二世部でキャッチすることもできたに違いありません。しかし、上記3つの立場のうち、最も二世部につながりにくかった立場が、他ならぬ、壮婦の家庭の二世たちでした。
こうした二世たちは、その行き場のない思いをどこに相談できたのでしょうか…。
現場で時折、こうした家庭の相談を受けたこともありましたが、私自身、今回の一連の報道を通して、当時、私たちが見落としていた多くの課題があったこと、私たちが汲み取れていなかった多くの声があったことを思い知らされました。
信徒の中には(一部の二世たちの中にも)、教会に被害を訴える二世たちの声を、単に「反対派」によって操作され、誇張されたものに過ぎない―と捉える、冷ややかな見つめ方がありますが、それは違うと思います。
私たちは、私たち自身が意識できていなかった声があること、取り零してきた多くの痛みがあることをもっと真摯に受け止め、その声に耳を傾けなければならないと思うのです。
教団の問題か?社会の問題か?
とある記者の方から、「一連の報道や被害者たちの声を、内部の二世たちはどう感じていると思いますか?」と尋ねられたことがありました。答えは、既に述べてきた中にあるように思います。
私たちは二世部を発足して以来、言わば「二世文化」という、既存の教会組織とは異なるコミュニティと文化をつくり、二世の保護圏をつくってきました。その中で育まれ、それが「教会」だと思っている二世たちにとっては、今、社会が批判している教会の問題点について、ピンと来ていないかもしれません。
教会の公務についている二世たちですら、(特に若い世代の場合)教団の問題の深刻さに気付けていない場合もあるでしょう。彼らの大半は二世教育や海外宣教、地域活動など、統一運動のポジティブな部分を担当しているケースが多いからです。
私自身、二世教育や青年活動に携わりながら、この運動の肯定的側面にも触れてきました。しかし全国を回り、様々な二世たちの声を聞き、親たちの痛みを知り、地域教会の現状に触れる度に、二世圏で作り上げてきた文化と教団の現状とのギャップに、大きな開きを感じることが度々ありました。
逆に、社会生活の長い二世であるほど、教団の課題をはっきり認識していたように思います。社会の尺度で客観的に見つめた時、この教団は「社会の公益に適う団体になっていない」と感じるからです。
私は、各教育現場でのたゆまない改善の努力を否定するつもりはありません。しかし、教団指導部の課題(教団中心の独善的な体質)から目を逸らし続ける限り、また、そこが改革されない限り、問題は繰り返されてしまうように思えてなりません。
内部の二世、信徒の方々においても、本気で教会の改善を願うのであれば、ただ、「社会が問題、批判する側が問題」として、社会の声・被害者の声を撥ね付けてしまうのではなく、また、昨今の報道に対し「見るな、聞くな、触れるな」という教団の一方的指導に盲従してしまうのでもなく、むしろ社会が何を批判し、何に憤り、教団の何が問題なのかについて、個々がよりオープンに情報を受け取り、個々の信仰と良識をもって、その良し悪しを判断していただけたらと思います。