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旧統一教会・被害者救済法案が可決 ~努力の結実と残された課題

※数日間、高熱で倒れ、その直後、溜まってしまった業務に追われ、久方ぶりの更新となりました…(汗)。昨日、救済法案が衆院で可決されたとのニュースを拝見し、感じたままを記します。

救済法案の制定 ― 被害者の声と努力の結実

一昨日8日、旧・統一教会の被害者救済に向けた新法案が、衆議院本会議で可決されました。当初の政府案に、立憲民主党をはじめとする野党側の意見を反映させ、与野党で合意に至ったとのこと。

具体的な内容としては、借金や住居販売等による献金、威迫・困惑を伴う方法での献金等の禁止といった元の案に加え、(“マインドコントロール下の状況”というものを定義できない代わりに)当事者が適切な判断を下し難い状況に置かれないよう十分に配慮する義務を課す(=配慮義務)といった項目が追加。

また、限られた範囲ではあれ、不当な献金に対する家族の「取消権」が認められたのに加え、違反が見られた場合(行政勧告・命令に従わなかった場合)の罰則等が設けられることとなりました。

これが最良の形ではなかったとしても、また、いくつかの課題を残しているとしても、それでも、変わることのなかった現状に「変化」がもたらされたという点で、この法案の意義は大きいと感じました。

これまで黙殺されてきた声が世論を動かし、また、こうした声を汲み取った心ある人々によって国が動き、新たな法案が制定された―。

それは、小川さゆりさんの涙のコメントに見られるように、大変なプレッシャーを乗り越え、必死な声を挙げ続けた、そうした地道な努力の結果であったのだと思います。

小川さん自身の家庭を思うと心痛くもあり、恐らく、表には出せない複雑な気持ちもあったに違いありません。

立場は異なりますが、他の被害者の方々の救済を願い、未来の子どもたちのためを思って取った彼女の行動に心からの敬意を表したいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=_qHMdCPnCEk

(ANNニュースより)

 

教団に求む ― 信教の自由の前に被害者の声を

一方で、こうした規制が、宗教全般に対する嫌悪や偏見を助長させてしまってはならないとも思います。献金の指導に問題があったとは言え、献金や寄付を捧げる方々の思いや、献金という行為そのものが軽視されていいとは思わないからです。

他のために自己を犠牲にしようとうする宗教的精神の尊さと、家庭問題・社会問題まで引き起こしてしまった教会の指導の問題とは、分けて考えていただきたく思います。

一方で、教会内には、今回の救済案制定の取り組みそのものを「信教の自由の侵害」のように捉える傾向があり、それらが単に、宗教を抹殺しようとする左翼の横暴である(=被害者は左翼に利用されているだけ)といった主張がなされていますが(私にも直接そうした旨のメッセージが送られてきますが)、その点は賛同しかねます。

確かに、反対派の動きもあるのでしょう。保守vsリベラル、勝共vs左翼といった背景もあるに違いありません。しかし、それでも、被害者の声は被害者の声として、ありのままを真摯に受け止めるべきだと思うのです。

教会内でも、行き過ぎた献金の在り方を問題視する声は常にありました。本来、内部から改革されるべきところを、外部の力によって改善が強いられたことはバツの悪い話ですが、これによって日本の信徒を守り、救済し得る足場が作られたことも事実ではないでしょうか?

私に届いた声は僅かですが、内部の信徒の中にも、今回の救済法案の制定に安堵する声はあります。

小川さんたちの声が全ての二世を代弁している訳ではないとしても(信仰に救いを見出した二世たちがまた多くいるとしても)、私たちがこうした数々の被害者たちの声を、本当の意味で拾い上げて来れなかったのが現状だったに違いありません。

私自身、現場で多くの二世や父母たちの声を聞いてきたつもりでしたが、今回の一連の報道を通して浮き彫りとなった数々の被害状況やそうした人々の生の声を聞きながら、分かっていないことが多かったことを痛感させられました。

であれば、信教の自由を訴える前に、また、彼らの声を「単なる一部の声」であるとか「反対派に煽られた主張」だとして切り捨てるのではなく、信徒の家族の悲痛な声として、真摯に受け止めることが先だと思うのです。

勅使河原さんがいつかの会見で語っていた「宗教としては、一人でも恨みを買うような状況があってはならないと思う」という内容が、内部の共通見解になって欲しいと思います。

小川さんのご両親へ ― 教会を守ることよりも大切なこと…

今回の法案が可決される背後で、小川さゆりさん自身の家庭的犠牲が大きかったこと、推察します。それは恐らく、ご両親にとっても同様であったに違いありません。

信仰をお持ちの立場からすれば、「自分たちの家庭から問題を起こしてしまった!!」といった感覚なのかもしれませんが、もしご両親が「天に対して、教会に対して申し訳ない」と思っておられるとしたら、(今の私が言える立場ではないことは百も承知ですが…)そう思って頂きたくない、とお伝えしたいです。

従来の献金の在り方は「誰か」が止めなければならないことでした。今の時代、家庭を破綻させてまで、また、家族に深い恨みやしこりを残してまで献金をし続けることは、天の御心でも、本来の摂理でもないはずです。

もし私が今まだ本部に残っていたとしたら、娘さんに対し、また一人の二世にそうした十字架を背負わせてしまったことに対し、心から申し訳なく感じるだろうと思います。

また、公に発言できないとしても、内部で起こせなかった変革をもたらしてくれたことに、感謝の思いすら抱くことでしょう。良識的な家庭教育者、二世教育者の中には、こうした観点を持っている人たちも少なくないはずです。

私たちの運動の本来の目的は「教会作り」ではありません。「家庭作り」です。

過去においては、国や世界のために個人や家庭を犠牲にすることを致し方ない、としていた時代もありました。でも、家庭連合の宣布以降は、「家庭に平和をもたらすことを通して平和世界を作る」というのが私たちのモットーでした。

もし私たちの信仰指導が「教会を守るためなら家庭を犠牲にしてもいい」という指導になっているとしたら、それはどこかに大きなズレが生じてしまっているに違いありません。

ご両親の信仰やこれまでの歩みを否定するつもりはありませんが、いったんすべての信仰の色眼鏡を外して、娘さんと向き合って頂きたいと思うのです。

もし、もう既に良識的な牧会者が、または家庭教育担当者が、そうした助言をしているのであれば、聞き流して頂いて構いません。

ただ、私が理解している家庭教育において、親子間の和解に至る一番の近道は、常に、親が子の心の声に耳を傾けることであり、様々な色眼鏡を外して、親から子どもに歩み寄ることでした。

信仰的な見地から見ても、娘さんは「大それたこと」を仕出かした立場などではありません。自らの良心にしたがい、自らが必要だと感じたことを必死でやり遂げたのだと思います。

もし、そんな娘さんとの心情的な会話よりも、組織を守り、教会の立場を優先するような指導をされているのであれば、それは本来の、少なくとも、家庭時代における正しい指導ではないはずです。

差し出がましい話かもしれませんが、今回のことを機に、全ての家庭が、本当の意味で「救済」されなければならないと思うのです。

残された課題 ― 本当の解決に向けて

今の世論と見ると、最終的な問題解決は、救済案の制定ではなく、法人解体であるとするような論調が強いように思います。

その辺り、正直、私には分かりません。

確かに、今々の人々を救済し、被害をなくすには、精神論だけではない、具体的な法的措置が必要であることは事実なのだと思います。

ただ、法的措置だけでは解決できないほど奥深く、複雑な思いが絡み合っているのが信仰心であり、宗教であろうと思うのです。

今々の被害は「力」でもってまず抑え込む必要もあるのかもしれません。しかし、親が親としての権威や力をもって子どもに信仰を押し付けようとすることも「暴力」であるなら、公的な力をもって、親たちの信仰を抑え込もうとすることもまた、違った形での「暴力」だと思うのです。

単なる精神論だと言われるかもしれませんが、最終的には、本人たち自身の自発的な「信仰」によって、組織の問題や指導の過ちに気付き、それらを是正する流れが出てきて初めて、根本的な解決に至るのではないでしょうか。

でなければ、(信徒自身が従来の在り方が正しいといった信仰観を持ち続ける限り)多くが危惧しているように、どんな法案を作ろうとも、無理な献金や勧誘活動をしようとする動きを規制することはできないと思うのです。

繰り返しになりますが、教会の行き過ぎた指導や構造悪による弊害は大きかったとしても、統一運動の教えや信仰そのものが有害であったとは思いません。むしろ多くの人々の魂を生かして来たのも事実でした。

今回の法案成立が「外部」からの働きかけであり努力であったとすれば、改めて、信徒自身が従来の信仰と組織体制の弊害を自覚し、本来の信仰と教えに立ち返ろうとする動きがまた「内部」から起こって来て欲しいと思います。

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