「宗教二世」という言葉は、親の信仰ゆえに経験してきた二世たちの苦悩を—長らく度外視されてきた彼らの困難や痛みを—世の中に広く知らしめる重要なキーワードとなりました。
しかしその一方で、「宗教二世」という言葉で括られることに“抵抗”を覚えた二世たちも多かったに違いありません。
それは、宗教二世という言葉が「二世=被害者」という含みをもって用いられてきたからでしょう。
統一教会のみならず、あらゆる宗教を信じる親のもとには二世たちがいます。そしてそこには、二世であるが故の苦悩と同時に、二世であるが故の気概や誇りといったものもあったに違いありません。
また、二世であるが故に与えられたものの中には、二世同士の絆や連帯感といったものも挙げられるでしょう。
私が知り得るのは統一教会のケースのみですが、二世同士のつながりはとても強いものがありました。それがまた、二世であることの誇りや、現状の困難を克服していく力を与えてくれたのです
私たちは互いのことを「兄弟姉妹」と呼び、時には、実の家族以上に強い連帯感をもつこともありました。
「二世コミュニティ」とは、二世たちにとって、ありのままの自分をさらけ出すことのできる安全地帯であり、「居場所」だったのです。
教会の解体を切望する二世たちがいる一方で、教会をなくさないで欲しいと願う二世たちがいるのは、彼らにとっての教会というのが「教団」(教会組織)などではなく、「二世コミュニティ」だからです。
私は何も、ポジティブな二世たちの声をもって教団の課題を正当化したり、もう一方の二世たちの被害が看過されていいなどとは思っていません。
ただ、相異なる思いをもつ二世たちがいることを認識し、彼ら双方の思いや見つめ方を理解した上で、教団の課題と向き合う必要があると思うのです。
今回は、統一教会における二世コミュニティの発祥と経緯を辿りながら、「教会が好きな二世と嫌いな二世がいるのは何故なのか」といった点について述べてみたいと思います。
二世局の発足 — 二世によって始まった二世教育
統一教会(日本教会)の二世教育は、他の宗教団体と比べても、一風変わった経緯を辿っていたように思います。
草創期(70年代)—。親たちが教会活動に専念していたとはいえ、信徒の家庭同士が家族同然の関係を築いていたため、そのつながりが二世にとっての保護圏となっていました。当時は「教会=家族共同体」だったのです。
それが80年代、教会の組織化が進むことで共同体意識は次第に薄れ、90年代初頭、「還故郷」(実家のある故郷に帰省)という新たな方針のもと、各々が「氏族伝道」を目指して全国に散らばって行ったことで、信徒の孤立化が進んだと言われています。
※「還故郷」摂理は、教会組織中心の体制(統一教会体制)から、本来の家庭中心体制(家庭連合体制)への移行を意図するものだったが、献金活動の推進に伴い、90年代、教会の組織化(中央集権化)はさらに促進されていった。
経済主導体制のもと、教会に二世の居場所はなく、子女教育(二世教育)に取り組もうにも、教会の理解や支援を得られない、そんな状況が続いていたと言います。
そんな中、本部に「二世局」という部署が立てられたのは94年のことでした。これは、日本二世の第一期生(=日本で最初に生まれた年代の二世)の先輩方が中心となって教会本部に交渉し、立ち上げたものです。
「二世は二世が責任をもつ!」「兄姉として弟妹たちを守ろう!」というのが当時の先輩たちの熱い思いでした。(この発足メンバーの中心的存在が梶栗正義氏でした)
言わば、「教会」が二世教育を立ち上げたのではなく、「二世」が二世教育を立ち上げたのです。
二世たちの居場所 ― 全国二世部の整備
私は第5期生にあたりますが、私の年代までは二世も少なかったため、大学時代から一期の先輩たちを助け、二世教育に携わっていました。
大学在学中の4年間、長期休暇はアルバイトと二世のワークショップ(修練会)で全日程が埋まっていた程。当時の私にとって、二世教育はライフワークでもありました。
90年代というのは、統一教会関連の報道(霊感商法・合同結婚式)がお茶の間を賑わしていた時代です。二世たちの多くが、周囲に自分が二世であることを明かせず、肩身の狭い思いをしていました。また、親不在の家庭で、鍵っ子をしていたケースも多々ありました。
ワークショップには、そうした二世が全国から集い、一週間から十日程、自然の中で様々な体力訓練やチャレンジ、チーム活動を行いながら、兄弟姉妹としての絆を発見し、現実の困難を打ち勝つ力を培っていったのです。
涙で出会い、涙で別れる—。二世修練会は当時の二世たちにとっての憩いと復興の場でした。今、社会生活を送っている多くの二世たちにとっても、当時のことは貴重な思い出として残っているに違いありません。
本部二世局の最初のミッションは、二世たちの居場所を作ること、二世教育の拠点を作ることでした。
そのため、毎年、夏季・冬季にワークショップを企画推進すると同時に、首都圏(東京都内)には二世のための教会(希苑教会)を設立し、全国各教区(各都道府県に該当)には「二世部長」(二世教育担当者)を立てて「二世部」(礼拝・交流・活動等)を発足させていきました。
教会内に初めて「二世の居場所」ができたのです。
二世教育の展望 ― 新たな改革運動の始まり
98年、私が二世局での公務に携わり始めた当時、二世教育に対する教会の理解は非常に乏しい状況でした。
私たちは全国の二世部長の方々と共に、周囲に理解があるないにかかわらず、自分たちのしていることがこの運動の「未来」を作るのだという自負心を抱き、互いに支え合い、励まし合いながら教育に当たりました。
二世の礼拝場所を確保することから交渉しなければならない教区もありました。本部から現場の責任者を訪ね、理解とサポートをお願いしなければならないケースもありました。
しかし、二世教育が現場の「摂理」(主に献金や伝道)に即プラスになるのか否か―、それが当時の教会の観点であって、心情教育(愛と人格の教育)や一家族文化の育成といった、当時私たちが抱いていた理想などは(=それが原理の教えや初期教会の中に見た理想でしたが)「絵空事」のようにしか受け止めてもらえないのが現状でした。
こうした空気が一変するのは2000年からです。当時、文総裁の後継と目されていた三男の顯進(ヒョンジン)氏が教会内の問題点(特に韓国指導部の文化と日本の献金問題)を深刻に捉え、改革に着手されたのが切っ掛けとなりました。
現状の組織改革(指導層の変革)こそ、激しい抵抗に遭って頓挫しますが、二世・青年圏を中心とする「未来の統一運動作り」が本格化して行ったのです。
顯進氏の観点を簡単に言うなら、統一運動は一教団の教勢拡大や利益のための運動ではなく、神のもとの一家族世界実現に向けた普遍的な霊性運動、家庭運動、平和運動であって、二世教育について言うなら、それは「教会の指示に従う二世作り」などではなく、「神の理想実現に生きるオーナー(主人)を作る」というものです。
当時、そのビジョンは教育者のみならず、二世圏や若い指導者たちを奮い立たせ、「教会改革」に向かわせる流れを作りました。教会の公務に二世たちが携わるようになったのは、正にここからだったのです。
こうした改革の中心だった顯進氏がなぜ「分派」として追われるようなったのか―。その背景は別の機会に触れますが、当時の改革の流れが、今に至るまでの二世圏の流れを作ってきたのです。
即ち、献金摂理をはじめ、既存の組織体制を維持しようとする教団指導部と、教会を改革しようとしていた若い二世リーダーたちの意識や観点は、決して同じではありませんでした。教団と二世の現状を理解する上で、この点、参考にしていただければと思います。
※無論、冷静に見るなら、トップダウンの組織である以上、韓国指導部の在り方(=統一運動のビジョンから離れ、自教団の維持・拡大ばかりを追求)が変わらない限り、また、日本がそこに追従し続けてしまう限り、内部改革は困難であろうと思われる。
■次の記事に続く。以下は後編の小題目 https://sakurai.blog/archives/377