養子縁組は人権侵害なのか?
暫くの間、時代の変遷に伴う教会の献金問題について述べてきました。今日はその続きを書くつもりでしたが、改めて、昨今の教会関連の記事に目を通しながら、特に「統一教会の養子縁組」ということが、多くのメディアで取り上げられているのを見ながら、危惧するところがあり、一言、このことに触れたいと思いました。
それが本来、「届け出と許可が必要」と定められていることであって、実際の取り組みが法に触れることであったなら、(当時の私自身も含め)無知だったことを反省すべきだと思います。
ただ、それが「子どもの人権侵害だった」という話になってしまうと、とても違和感を覚えるのです。
報道で紹介されていた二世たちの声、「養子」に出された立場で経験した、言うのに言われぬ複雑な心境については、とても心痛く思いましたし、こうした声は、教会も真摯に受け止めるべきだと思いました。
ただ、その一方で、養子として今の父母に出会い、育てられたことを感謝している二世もいれば、それ以上にまた、その子との出会いに感謝した親たちもいました。無論、周囲には分からない、本人だけが背負ってきた内面の世界もあるのかもしれませんが、それでも「人権侵害された子ども」というような見方、言い方をして欲しくはないと思うのです。
確かに、教会には様々な課題がありました。無理な献金要請などは社会的モラルにも反するものです。でも、だからと言って、教会が取り組んできたあらゆる取り組みが「問題」であり、「反社会的行為」のように見る捉え方は“行き過ぎている”ように思えてなりません。
養子縁組について、私自身、これを代弁し得るほど把握できている訳ではありませんが、教会がそれでもとても丁寧に、心を尽くしてきた部分だと感じています。それこそ実績評価などとは関係なく、「家庭の幸せ」を思って取り組んできたことの一つだと思うのです。
養子縁組の始まり ― 三位基台と家族文化
そもそも養子縁組はどこからなぜ始まったのか―。その考え方そのものは初期からあったといいます。
古き良き時代の教会には、互いを「家族」だとする文化が存在していました。教会では互いのことを「食口」(シック)と呼び合っていましたが、これは韓国語で「家族」を意味します。
初期の頃、親たちが伝道活動等で忙しく、家を留守にするようなことがあると、教会のお兄さん、お姉さんが親代わりとなって相手をしてくれることもあれば、隣の家庭の親同士で子育てを助け合うようなところもありました。
「我が子」という意識を越え、二世たちを皆等しく、「天から授かった子ども」として、皆で共に育んでいこうという文化があったのです。
また、特に「三位基台」(さんみ・きだい)といって、祝福を受けた折、「家族・親族のように助け合う立場」として、3家庭ずつ1組に結ばれ、仮に親が病気になったなら、代わりに子どもたちの面倒を見てあげたり、海外宣教などで長期間、家を留守にしてしまう家庭があったなら、残り2家庭でケアをする、といった意識をもっていたと聞いています。
いつからかこうした伝統も風化していき、昔ほどの強いつながりではなくなったと思いますが、過去、こうした三位基台の中で、「我が家に子がいないとしても、隣の子を我が子のように愛そう」という意識や、「子どもに恵まれない家庭があったら、養子にあげて共に育てよう」という文化が育まれていったといいます。
最初こそ、文総裁の指導によるものだったといいますが、それが「美しい伝統」として自然に感じられるような家族文化が、そこにあったと思うのです。
養子縁組の進め方 ― 知り合い同士か? 斡旋(仲介)か?
養子縁組の進め方ですが、最初は、三位基台同士ですから、「知り合い同士の間での養子縁組」として始まったと言えます。また、一緒に祝福を受けた同僚の家庭同士であったり、お世話になった先輩家庭で、子どもに恵まれない家庭に養子を、といったケースもあったようです。
実際、どこの誰かも分からない家庭に「養子を出そう」とはならないでしょう。「この家庭なら子どもを幸せにしてくれるに違いない」と思えて初めて、愛する我が子を養子に出そうという思いになるのではないでしょうか?
一方で、子どもを欲しながらも子どもに恵まれず、だからと言って、周囲に養子をお願いできるような家庭もない、といったケースもあったといいます。こうした際、地域の牧会者(教会長)や家庭の担当者が、養子を欲している家庭と、養子に出してもいいという家庭を仲介して紹介するケースもあったと聞いています。(数が少なかった初期の頃は、本部で仲介をしていたとも聞いています。)
この点が「斡旋」として指摘されている部分なのだと思いますが、私自身(自分の部局内のことではあるのですが…汗)、これが実際にいつ、どれくらいの頻度と規模でなされていたのかは分かりません。この件の実施報告を受けたことはなかったからです。
ただ、長くこれを担当していた方が、会議で定期的に養子縁組の説明をする時は、いつも丁寧に、両家の思いや子どものことを配慮した指導をしていたことを覚えています。
少なくとも、養子縁組は両家の意思と希望によって成立するものであって、教会の「指示」で養子縁組が強要されるようなことは、本部は勿論のこと、現場でもなかったことと思います。養子縁組を貴いものとして推奨することはあっても、それが教会の数値目標や評価対象になったことは一度もなかったからです。
養子を授ける側、授かる側 ― 子どもの幸せは考えられていない?
ある報道で取り上げられていた「子宝に恵まれたから養子を出さなければならない」とか、「恵まれない家庭に養子を出す“責任”がある」といった教会書籍内の文言(=私の手元の書籍では探せなかったのですが…)は、あまりに乱暴であるに違いありません。
養子を授けるということ、特に自分のお腹を痛めて生んだ子を養子に出す母親の立場からすれば、それは普通にできることではないからです。言わば、それくらい相手家庭のことを大事に思えなければ、決してできないでしょう。それは「責任感」からではなく、「愛情」の成せる業なのだと思います。
自分の兄弟の家庭だという意識でもない限り、実践できないのではないでしょうか?
一方で、子どもを欲しながらも、子どもを持てない母親たちの思いもまた切実だったと思います。家庭相談に応じた際、そうした苦しみを吐露されるケースもありました。そうしたなか、養子を授かったのだとしたら、母親はその子の存在にどれだけ慰められ、また感謝するでしょうか?
でも、それもこれも皆、結局は生まれてくる「子ども」の幸せじゃなく、「親」の都合じゃないか、と言われる方もおられるでしょう。その点、私も、記事や報道を見ながら、様々な思いを通過してきた二世の声を聴きながら、確かにそうなのかもしれない―とも思いました。
ただ、授かる側も、また授ける側も、特に母親たちは皆、生まれてくる子どもの幸せを人一倍、願ったのではないでしょうか?
子は親を選べないと言います。それは子の複雑な心境から出てきた言葉だと思いますが、親の立場からしても、常に「自分がこの子の親で本当に良かったんだろうか」と思わされたり、「もっと良い家庭に生まれて来たほうが幸せだったんじゃないだろうか」と、我が子を不憫に思ったりするものです。
親も皆、不足で、不器用で、失敗だらけです。子どもたちから見たら、どの親も足らないことばかりでしょう。でも、それでも、子どもにとって幸運な境遇があるとすれば、それは自らが「望まれて」「願われて」生まれてくることであって、自分の存在を望み、願ってくれた人に「親」になってもらうことではないでしょうか?
その意味で言うなら、養子として「あなた」を迎えた親は、心の底から「あなた」という子の存在を切実に願い、欲した立場なのだと思うのです。
教会が、献金要請や様々な組織の都合によって、そうした親から「親の心」を奪うような指導をしてきたとしたら、それは糾弾されるべきだと思います。でも、少なくとも、養子縁組の取り組みそのものは、実績評価や布教、教勢拡大といった教会のエゴには汚染されていない、純粋な取り組みだったと思うのです。
無論、法的問題は別でしょうし、このことで苦しんできた二世たちの声を拾い上げ、改善を求めることは必要だと思います。ですが、教会での養子縁組の取り組みそのものを「人権問題」として取り扱うことについては、是非、慎重に考えていただきたいと思います。
養子として育った全国の二世やその父母の思いを考慮していただきたいと思うからです。