今日4月23日の午後、家庭連合二世による公開シンポジウム「親子の絆断絶に終止符を」が開催されました。
これは、昨年以降、教団への批判の声が強まる中、葛藤を覚え、悶々としてきた教団内の二世たち、主に20代の二世の有志らが「自分たちの声を挙げたい」として企画した、自発的な取り組みであったといいます。
主催者の二世、並びに2名の有識者の方(ジャーナリスト・弁護士)が壇上でスピーチを行い、その後、パネルディスカッション、来場者からの質疑応答と続きました。
会場の様子はYoutube配信され、私も(リアルタイムではありませんが)先ほど、拝聴しました。
細かく見返し分析する余裕はありませんが、率直に感じたことを思いつくままに記そうと思います。
第1回公開シンポジウム_「親子の絆断絶に終止符を」https://www.youtube.com/watch?v=XOwkMcnsNIw
※普段、タイトル表記は「統一教会」としていますが、今回は敢えて「家庭連合」としました。いまだ「統一教会」式の組織文化も続いていると思いますが、二世たちが居場所としてきたのは家族文化を標榜する「家庭連合」だからです。
“もう一つの声”
まずはこうした取り組みを、二世たち自身が自主的に行ったということ、その彼らの努力と勇気を心から称えたいと思います。
特に代表の小島さんのお話、自らの家庭の率直な話を踏まえてのスピーチは心に響くものがありました。外部の心ある方々にも理解、共感していただけるのではないかと思います。
また一方で、教会に対して別の感情を抱く、他の二世たちに対する配慮や気遣いなども感じました。そうした思いと両面の認識をもって立っていることに安心感を覚えました。
小島さん曰く、現状の報道では取り上げてもらえていない、二世たちの“もう一つの声”を発信したかった、とのこと。
このブログでも記したように、実際、全ての二世が「親・教会の被害者」だった訳ではありません。教会の中で愛情と理想を育んできた二世たちからすれば、むしろ行き過ぎた世論や報道にこそ「被害を受けた」と感じたのでしょう。
無論、だからといって、教会によって実際に被害を被ったとする二世たちの声が看過されていいとは思いませんし、そのことは小島さん自身、よく理解しながら語っていたように思います。
社会的に見れば、今日のような教会にポジティブな二世たちの声こそ、人々に知られざる“もう一つの声”なのでしょう。
一方で、教会“内”においては、昨今の報道で取り上げられてきた二世たちの声こそ、それまで教会内で汲み取られることのなかった、また看過されてきてしまった“もう一つの声”だったに違いありません。
外部に向けては、今日のような声が発信される必要があると思いますが、教会内では、そうでない声に耳を傾けることを意識して頂きたいとそう思います。
“親子の絆”の回復に向けて
冒頭で挙げたように、集会のテーマは「親子の絆断絶に終止符を」でした。
確かに、これまでクローズアップされてきたように、教会の教えを受けた親のもと、苦んできた二世も多くいたことは事実ですが、親子関係が良好な二世もいれば、親子間で信仰を共有しているケースも多くありました。
また、親子間で葛藤を覚えている場合でも、必死になって歩む親を「理解したい」という思う二世も少なくありませんでした。
そのため、集会の説明にあったように、単に社会から「あなたの親はおかしい」「教会にマインドコントールされている」「あなたは親の被害者だ」と言われることが、二世の救済につながる訳ではないでしょうし、「二世の救いは信仰をもつ親との断絶ではない」という点、その通りなのだと思います。
ただ―、本当に親の信仰ゆえに(厳密に言うなら、親の偏った信仰“観”ゆえに)二世たちが苦しんできたのも事実であって、その考え方の“歪み”を是正しない限り、問題は続いてしまうと思うのです。
頭の痛い課題は、その親がもつ考え方の歪みというものが「教会の教え」(=本来の信仰でも教義でもないもの)によってもたらされているところが少なくなかった、という点です。
私自身、親の信仰を“糾弾”することが親子間の絆の回復になるなどとは思いませんが、課題を課題として認識せず、向き合わないままでも、関係は修復し得ないと思うのです。
※続きを書こう書こうと思いながら、なかなか落ち着いた時間がとれずにいますが、次回以降、統一教会の「信仰(観)」の問題に踏み込んで記そうと思っています。
本来の教えと組織の問題
「統一教会の本来の教え」と「統一教会が実際に教えてきたこと」の間には、常にギャップがありました。霊感商法、高額献金、先祖解怨、上意下達の組織文化…etc。
ただ、二世たちが二世教育や二世コミュニティの中で学んできたことは、それらとは無縁のものでした。
彼らが今日の集会で話していたように、互いを家族とする文化、怨讐を越えて理解し合おうとする姿勢、純潔を守って結婚に臨むこと、自らが進んで献金を捧げること。どれも、他から批判されるようなものではないはずです。
それが私たち本来の信仰、「統一運動」本来の教えであって、有識者の方々もそうした価値観をもった彼らと触れている限りは、教会に何ら問題は感じないのだろうと思います。
問題は常に信徒ではなく、教会組織(指導部)の在り方にありました。
ここで詳述しようとは思いませんが、例えば、小島さんが質疑応答の中で、「私たちは全ての人を教会に入会させたいんじゃなく、世界から苦しむ人をなくしたいんです。それこそ宗教さえ要らない世界(*)をつくることが目的なんです」(正確な表現ではありませんが…)といった説明をしていたと思います。
私もそれに100%同意します。私たちの本来の信仰はそうだからです。また、二世たちも嘘偽りなく、そう信じているんだと思います。私自身、二世教育の中で、彼らにそう説明してきたからです。
ですが、この教団指導部の発想は違いました…。
ある時点から、この教団は宗教団体として”君臨”し続ける方向へと舵を切ったのです。
※多くの信徒は知りませんが、それが当時、教会改革の中心にあった三男さんが教団を追われた「本当の理由」でもありました。
本当に、宗教団体として世界に君臨する意思がないなら、組織維持に固執する気がないなら、あんなにも大がかりな建築事業を、大きな犠牲を払ってまで推進しようとはしないでしょう。教団の豪華建造物と世界の平和とは、何ら関係がないからです。
話を戻しますが、二世たちの文化と教会組織の課題とは別物です。
二世たちのポジティブな発信によって、教会の組織問題が看過されていいとは思いませんが、逆も然り、教会に課題があるからと言って、二世たちが(或いは信徒の方々が)社会からバッシングされていいなどという理由にはならないはずです。
教会内(正確に言うなら、二世教育の中)で育った二世たちが、どんな人間性をもち、どんな価値観をもち、どんな思いを抱いて歩んでいるのか―については、是非、偏見のない目で見ていただきたいと思いますし、今日のような勇気ある発信が ”もう一方”の二世たちの素の姿を知っていただく上での貴重な機会になることを願います。
*補足: 上述の「宗教さえ要らない…」という表現ですが、それは人や社会に「宗教性」そのものが不要だという意味ではありません。統一運動が本来目指してきたものは、宗教が「制度化・組織化された特殊団体」として存続するのではなく、豊かな精神性や徳の高い伝統や教育、文化として家庭生活や社会の中に自然に溶け込み、物心共に豊かな文化を築くことでした。現教団の在り方は、その理想からは大きく離れてしまったと感じます。